ナンパ師と私3

演技か素かという二項対立の図式を通して、自分や他人の言動を眺める癖を、過去に遭遇した身近な他者とのコミュニケーションの積み重ねによって形成されたものとする、今回の私の分析は、単純すぎはしないか?

なぜなら、今回私が描いたようなダブルバインド的なコミュニケーションを強要されたことがないにもかかわらず、演技か素かという二項対立を意識してしまう人間はちまたに大勢存在しているからである。

演技か素かという二項対立の図式は、特殊なコミュニケーションの強制による産物というよりもむしろ、「演技/素、嘘/本当、建前/本音」という言葉(=比喩)が存在しているという事実のみによって、その存在を確認できてしまうものではないだろうか? これらの言葉を確認することができる地域においては、不可避的に当該の人々は、これらの言葉(=比喩)を用いて世界を眺めざるをえない。ただそれだけのことではないだろうか?

ダブルバインドを受けたから、演技か素かという二項対立の図式にこだわるのではなく、「演技/素、嘘/本当、建前/本音」という言葉(=比喩)が利用可能な言葉(=比喩)として手に入るため、これらの言葉(=比喩)に感染してしまい、これらの言葉(=比喩)を実際に使用し、世界をこれらの言葉が示す通りに体感してしまう。これらの言葉を使用することによってしか感受できないリアリティがある。ただそれだけの話ではないのだろうか?

私は、過去の自分自身の体験をあまりにも強調しすぎているのではないだろうか?

確かにベイトソンは幼児期におけるダブルバインド経験が分裂病を引き起こすという仮説を立てている。ベイトソンが描くところの分裂病者とは、まさしく「演技/素、嘘/本当、建前/本音」という二項対立に敏感な人々である。その姿は私とそっくりである。やたら他人の本心を知りたがり、表面上の言動を素直にそのものとして受け取らず(受け取りすぎる分裂病者もいたっけ…)、絶えずそれに疑いの目を投げかける。

しかし、人が生きるリアリティを決定する言葉(=比喩)という観点から、私の状態を記述するならば、ダブルバインド仮説はその説得力を失うのではないか?

「演技/素、嘘/本当、建前/本音」という言葉(=比喩)に己がリアリティを絡め取られ、自他の言動を「演技/素、嘘/本当、建前/本音」という二項対立に基づいて世界を眺める人は、どこにでもいるからである。

例えば、演出家の鴻上尚史氏は著書『あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』の中で、次のように述べている。

 「僕は、演劇の演出家を二十年近くやっていますが、ずっと不思議に思っていることがあります。それは、「顔」や「髪型」「服装」と同じように、どうして、自分の「声」や「体」「感情」「言葉」に気を使わないんだろう? ということです。(中略) では、どうして、魅力的な声や体、言葉、感情を僕はあなたに勧めるのか? それは、たぶん、あなたが魅力的な髪形や顔(=メイクアップ)、服装をしようと思う理由と同じです。一言で言えば、”よりよい人生を生きるため”です。もっともてたいとか、あの人に好かれたいとか、チャンスをものにしたいとか、人生を切り開きたいとか、いろんな言い方があるでしょう。でも、結局は、”よりよい人生を生きるため”です。」[鴻上 2000:1-5]

そして次のように述べている。

 「日本人は、まず、内面を問題にします。(中略) 僕たちは、センスの問題をあつかう時、技術の問題にしないで、内面の問題にしがちです。センスをどう分析していったらいいか分からないから、内面を語ることで、つい、ごまかしてしまうのです。(中略) その昔、野球中継を見ていて、ヒットを打った打者に対して、アナウンサーが、「西本、打ちましたねー!」と言うと、「そうですねー。西本は親孝行ですからねー」と返した元監督の解説者がいました。僕は、テレビの前でのけぞりました。ヒットを打つという「技術」の問題を、親孝行という「内面」の問題で返したのです。」[ibid:71-73]

上記の引用から、一般的な「日本人(←なにそれ?)」はとかく内面(と外面)に関心をむけがちであることが理解できる。つまり、なにも幼少期にダブルバインドを受けて育たなくとも、内面と外面という二項対立に基づいて「日本人(←なにそれ?)」は思考しがちなのである。内面と外面という二項対立と、素か演技かという二項対立は瓜二つである。ほとんど同じ構造をしているといってもよい。

したがって、私のダブルバインド仮説は的を得た説明とは言い難い。

(↑ なんか変ではないか? 確かに、その言葉(=比喩)が利用不可能であるならば、絶対に生きることができないリアリティがあるのは理解できる。「演技か素か」という言葉が存在しない場所で、「演技か素か」という言葉が与えるリアリティを享受することはできない。しかし、現に「演技か素か」という言葉が存在してしまっている場所で、ある人物がこの言葉を「頻繁に」用いて世界を眺めてしまうことが問題になっているときに、「「演技か素か」という言葉があるからいけないのだ」と主張することに何の意味があろうか? ここで重要なことは、「演技か素か」という言葉に「固執」してしまう理由を説明することである。「「演技か素か」という言葉があるから」という返答は答えになっていない。まるで、自動車事故が多発する理由を、「自動車会社が自動車を生産するから」というふうに説明しているようなものだ。このような説明はけして非論理的ではないが、実用的ではない。役に立たない。)

また鴻上氏は内面と外面の区別を認めた上で、外面を操作することによって内面の状態を変化させる技法について述べている。「自分の感情を自覚してコントロール」[ibid:47]しようとする人を、彼は「感情の教養がある人」[ibid:41]と呼ぶ。

 「今日が、一年間準備したプロジェクトの発表(プレゼンテーション)の日なのに、恋人と別れたとか、親が死んだとかの場合です。(中略) その時、感情の教養のある人なら、『さあて、この感情をどうしよう』と思うのです。『この胸張り裂ける感情を抱えて、いったい私はどうしよう』 場合によっては、『どうやっても、楽しい気分にテイクオフできない』と結論するかもしれません。『そのかわり、できるだけ哀しみをやわらげよう。少しでも、哀しみに振り回されることは避けよう』と結論し、そのためにできることをしたとしたら、その人は、とても感情の教養がある人なのです。」[ibid]

そして彼は例として「本当に笑ってみる」という課題を取り上げ、その方法について述べる。「本当に笑う」には、自分が今まで本当に笑ったときの状況や、思わず笑ってしまうような状況を想起すればいいのだという。「『最近、経験したおかしかったこと』『昨日、テレビで見たギャグ』『こんなことが起こったら大笑い』というようなことを想像」[ibid:33]して、自分を自分で本当に笑わせるのである。

このような感情コントロールを行う際に注意すべきこととして、彼は次のことをあげている。

 「大切なことは、「本当に」とはなんだろうと悩まないこと。あなたが、「あっ、今、本当に笑えた」と感じる瞬間でかまいません。「本当に笑うとは、どういうことなんだろう?」と真剣に考え込まないこと。そう考えた瞬間から、あなたは、「本当に笑う」ことができなくなります。「私は笑っているが、これは仮面の笑いだ」なんて、小難しいことを考えないこと。」[ibid:35]

この演出家はナンパ師と同じ考えをしているように思える。演出家も「演技か素か」という二項対立に全然こだわらない。鮮やかすぎるほどに。
 
分かりました。よく分かりました。

とことん納得がいきました。

人類学者が指摘してくれたように、「演技か素か」という二項対立は粗雑で幼稚で有害な図式なのだろう。

その意味では、内田さんによる2001年1月27日の日記も注目に値する。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwgh5997/diary//yogiri/yg0101.html 

「会社の前の横断歩道で老婆がよろよろしていたら「お、そこらへんで人事の担当者が見ているかもしれんぞ」と気を働かせて、「ああ、おばあさん、私が荷物を持ってあげましょう。たいへんですね、どちらまで?ふふふ」などと愛想を振りまいたり」したらいいのである。

どんどん積極的に、私も。

◆参考引用文献

鴻上尚史 2000 『あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』 講談社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062738856/ref=sr_aps_b_/249-5348095-0840346

◆おまけの思索

調査地で憑依儀礼を観察する人類学者は、「彼らは演技をしている。ただしその演技は演技であることを忘れられた演技だ」と述べたりする。このような人類学者も、私と同様に「演技か素か」の二項対立にからめとられているといえる。霊を降ろしているミディアムは、マジで霊(←なにそれ?)を降ろしているかもしれんのに。それに向かって演技という言葉を貼り付けるのは、お門違いではないだろうか? 

過度に他者の言動を「演技か素か、嘘か本当か」という二項対立の図式のもとで眺めるのは、なにも私だけではない。憑依儀礼を調査する人類学者の多くが、私と同様の演劇モデルに基づいて、ミディアムを眺めてきた。

リアリティとは、最近流行りの言い方だと、「〜であることはよく分かってるんだが、でもやっぱり……」[真島 1997:127]と表現されるような状態をその本質としているとされる。

しかし憑依を調査する人類学者の多くは、憑依儀礼をリアルに受け取ることはない。もっぱら憑依儀礼に参加している現地の人々と、霊を降ろしているミディアムを観察しているだけと思われる。

「どうしてそもそも自分自身は憑依儀礼にリアリティを持つことが出来ないのか?」なんてことを観察者である人類学者が考えることはあまりないのではないか?

「憑依は「見せる」パフォーマンスでありながら、パフォーマーに生じているはずの意識変容の実際は、けっしてオーディエンスに「見えない」。しかし、個人の「内的」意識がたとえ身体という検証不可能な楽屋のうちに閉ざされ、また彼に憑いたという精霊が不可視の存在であれ、そのことで憑依をめぐるオーディエンスの、またパフォーマー自身の信念が損なわれることはない。むしろ逆に、憑依をめぐる信念は、他者が見えないという「情報」、および見えない他者がたしかに存在するという「情報についての情報」から無際限に誘発される解釈の運動によってこそ、信念としての力を得ているのである」[ibid:138]

上記のように述べる人類学者は、彼自身が明らかにするところの情報操作という力学が働いている憑依現象の場において、肝心の憑依にリアリティを持つことはあるのだろうか? パフォーマーを取り巻いているオーディエンスのひとりとして、憑依現象に対しリアリティ(信念)をもつことはあるのだろうか?

私は2年前にケニアで、憑依儀礼の際に霊(←なにそれ?)を降ろしているミディアムを前にして、「演技くさい」と思ったりしていた(というか何が起きているのか最初は全然分からなかった。憑依は至極自然に突然始まるので)。

「演技くさい」と即座に当たり前のように判断できてしまう独断的な自分自身について考察する余裕を、当時の私は全く持ち合わせていなかった。

「どうして自分は憑依儀礼にリアルさを感じることができないのだろう(=憑依霊の存在とそれを実際に降ろすとされるミディアムのその当たり前さをどうして自分は享受することができないのだろう。どうしてそれをそのまま真に受けることができずに演技として捉えてしまうのであろう)?」と疑問に思うことはなかった。

おそらく私には能力が欠けているのだと思う。虚構を現実として生きる能力が。例えば、「最初は身ぶりでなぞっただけのみせかけの感情が、しばらくすると本来の感情だったかのような意識に変容していく」能力[ibid:128]が。または、「自分がうそをついていることを知りながら、真実を語っていると感ずる」能力が[ibid:129]。

いや。欠けているのではない。虚構を現実として生きる能力が発動されるのを抑制する何かが私にはあるのだ。

だから私はナンパ師にはなれないのだ。

すぐれた俳優は「平常のペルソナから役柄への変容を意図的に不完全にしておき、二重認識の逆説そのものを鑑賞に供する」[ibid]ことができるという。私はこのことがかえってできてしまいすぎるから、苦しんでしまうのではないだろうか?

「二重認識の逆説そのもの」[ibid]は私にとって、鑑賞するに耐えないものなのである。すぐれた俳優は「意図的に」二重認識の状態を鑑賞しようとする。それとは逆に私は、非意図的に(自然に)二重認識の状態を鑑賞してしまう。

そしてその状態にとどまり続けることができないあまり、極端に正直になってしまうのであろう。つまり私は嘘をつくことができないということである。

このような私の性癖は、どのようにして形成されたのだろう。

嘘をつけない人間は、どうして嘘がつけないのだろう? 生真面目な性質は、どのような環境のもとで形成され、そして、どのように改善することができるのだろうか?

◆参考引用文献2

真島一郎 1997 「憑依と楽屋─情報論による演劇モデル批判─」 『岩波講座 文化人類学〈第9巻〉儀礼とパフォーマンス』青木保編 岩波書店