フーコーの『自己のテクノロジー』を読んでラクになろう

昨日、イスラム研究会後の懇親会にて、「フーコーを読んでみては?」という助言を、ハマからもらった。

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なんでも、フーコーによると、「演技か素か」もしくは「外面と内面」の二項対立的な図式をめぐって、人が悩むことができるようになったのは、近代以降になってからだという。

近代以前の時代においては、人は自分の行為が「演技なのか素なのか」どうか、気にすることはなかったらしい。

目の前にいる女性と「セックスがしたい」としか思っていない個人が、己の欲望を満たすためだけに、「愛している」というセリフをその女性に対して喋ったとしても、その個人は、そのこと自体に、うだうだ悩むことはなかったらしい。

ところが近代という時代になると、人は絶えず反省するようになり、表向きの自分の行動と、自分の内面との両方を意識するようになったらしい。

ここで注意すべきことは、「発見されるべき隠されたものとして、もともと『内面』という領域が存在していたのではなく、近代以降になって初めて、『内面』という領域が発明された」ということである。

「演技か素か」という邪悪で単純な二項対立の図式に基づいて、世界を眺めることを否応なく強いられてしまう時代が、近代という時代らしい。

上記の話が「本当の」話だとしたら、近代という時代は、非常にいやな時代といえる。

近代なんて大嫌い。

実は、「演技か素か」という、私をいつも苦しめる二項対立の図式は、人類学の分野においても、オーソドクシーやオーソプラクシーという専門用語のもとで、ちゃんと取り上げられているという。

憑依について研究しているランベックという人類学者が、そのような議論を展開しているのだそうだ。

私の苦しみは、近代特有の苦しみらしい。

そしてフーコーも私と同様の症候に悩まされていたらしい。

で、その悩み苦しむフーコーが著した作品が、ハマが私に紹介してくれた『自己のテクノロジー』らしい。

私はラクになりたい。

もっと心身ともに穏やかな状態になりたい。

そのためにも、『自己のテクノロジー』は読んでみようと思う。

(↑ ん? それじゃあ私が出会ったナンパ師は、近代人ではないことにならないだろうか。ナンパ師は、出会ってから三日も経っていない女性に「愛している」と容易に口にすることができる人物だった。ナンパ師とは、前近代の人間なのであろうか?)

(↑ なんか、私が抱えている問題は、近代がどうのこうのという問題とは関係ないような気もする。要するに私は人を心底好きになることができればいいのである。人を死ぬほど好きになることができたならば、遠慮なく堂々と「愛している」というセリフを口にすることができ、セックスをすることも可能になるだろう。私は人を好きになることができるようになればいいのである。)

(↑つーか。セックスがしたいがために、人を好きになろうとしているような感じがするので、これでは本末転倒なのではないか? その人を好きになったら自然にその人とセックスしたくなるというのが正しい恋愛のあり方なのに、私は、セックスをするという目的をかなえるために、人を好きになろうとしている。順番が逆になっている。)

(↑私はセックスを過度に重視しすぎているような気がする。人生において欠くことのできないものとして、セックスすることを追い求めすぎているような気がする。)

(↑セックスのことなど、どうでもよくなればいいのではないか? セックスに無関心になることができればいいのではないか?)

(↑セックスなしの人生は、エロスがない。切なさもない。哀しさもない。よって上記の考え方は却下。)

(↑で、どうする? 私は、恋愛とセックスと「演技か素か」などの問題にどう取り組めばいい?)

(↑とりあえず『自己のテクノロジー』を読もう。)

(↓ ていうか私はしっかりその人を好きになっていたこともあったではないか確かに。私は、刻一刻と変化する自分自身の心模様に、換言すれば、なんらかの対象に対する思いに、常に一定した様相を備えさせようとしすぎるのではないか? その人のことが好きと胸を張っていえるような心境のときもあれば、その人のことなどどうでもいいと思ってしまうような心境にいるときもある。それなのに、恋人同士という関係にいるならば、常にその人に対して好きという感情を人は抱いていなければならない、と私は極端に考えてしまっていたのではないか? 人の心は刻一刻と変化する。ほかならぬ自分自身が驚いてしまうくらいに、なんらかの対象に対する自分の思いは、勝手にきまぐれに何の前触れもなく変化していく。睡眠不足や病気、仕事の行き詰まり、その他様々な理由から、私の心は常に変化を強いられる。その人に対して私は常に同じ感情を抱くことは不可能に近い。この当たり前の事実を無視して、私は自分自身の心を過剰に点検し、好きという感覚をその人に対して「その時点においては」持っていないことを確認したとたんに、「愛している」とその人に言えなくなってしまうのだ。なぜなら内面の状態と、口に出しているその「愛している」というセリフは、一致したものではないから。確かに「その時点において」は一致していないといえる。しかしたかが「その時点のこと」である。私は病的なほど反省的になり、自分の内面を探索し、ほんの瞬間的な出来事にすぎない「今はその人に対して好きという感情が湧かない」という事実にいたずらに過敏になり、「その時点において」は事実にすぎない内面の状態と、「愛している」というセリフの意味内容が衝突することに、耐えられないのであろう。もっと私はおおざっぱになったほうがいいのではないだろうか。いい加減になったほうがいいのではないか。自分の心の瞬間瞬間にことさら注意を向けるのではなく、長期的なスパンで自分の心の状態をゆったりと眺め、その人に好きという感覚を持てなくなるような時は、断続的に到来してくるにしても、ほんの一瞬の出来事でしかなかったこと、言い換えると、その人に好きという感覚をもてなくなるという心の状態は、ずっと続くのではなかったということ。このことに気付くことができなかったから、私は悩み苦しんでしまったのではないのだろうか? 人の心はいつも変わるものなのだ。なんらかの対象に対する私の思いは常に一定ではないのだ。付き合っているさなかにおいても、多分結婚している仲であったとしても。病的に生真面目な私は、本来常に変化し続ける心の状態を、変化してはならないものとして思い込んでしまったのかもしれない。私はその人を愛しもし、しかし時折はなんとも思わないこともあった。それが普通のことであることに、気付くのが遅すぎた。)