保苅実さんの主張を私は正しく要約できているのだろうか?

「現地の人の語りを「史実」として扱え」と保苅実さんは主張していないのでは?

保苅実さんが立てた問いを私は、前回のエントリーにおけるコメント欄にて次のように要約した。

「現地の人にとって「真摯な経験(リアルな経験)」であれば、それだけでこれらの経験を「史実」として扱うことが可能ではないか?」

はたしてこの要約は正確な要約だろうか? 

思い切ってこのように要約してみたものの、実は私はこの要約に自信がない。保苅さんの主張を、単純化あるいは歪曲してしまってはいないだろうか? 

今回のエントリーでは、このことに関して現在の私が抱えている迷いを、クリアカットに提出してみたい。

「事実」と「史実」と「リアル」

結論から言うならば、「事実」と「史実」と「リアル」という三つの言葉について保苅さんが、それぞれをどのようなものとして捉え、さらに、これらをどのように関連付けていたのかが、私には理解できていない。

私の読解能力が低いからかもしれないが、いくら『ROH』を読み返しても、これら三つの用語の関係を把握できた気になれない。そこで私は、前回のエントリーのコメント欄に書き込みを行う際に、これら三つの言葉を次のように自分なりに整理した。

「事実」とは「史実」と同義である。そして「リアル」とは、「疑えない」ということである。

上記のように三つの言葉を定義したうえで私は、保苅さんが立てた問いを「現地の人にとって「真摯な経験(リアルな経験)」であれば、それだけでこれらの経験を「史実」として扱うことが可能ではないか?」と要約した。

以下より、この要約が正しい要約ではない可能性と私が目下抱えている迷いについて、記述していきたい。

排除の意味

まずはじめに、保苅さんが何を問題にしているのかを見ていきたい。

歴史学者たちが史実性の呪縛から解放されない限り、ケネディ大統領がグリンジの村に来たっていう歴史は、歴史学者によって排除され続けるでしょう。(『ROH』p-25)

上記において保苅さんは、「歴史学者による排除」を問題にしていることが分かる。歴史学者によって「ケネディ大統領がグリンジの村に来たっていう歴史」が排除されてきたこと。そしてこれからも排除は続くであろうこと。保苅さんは「歴史学者による排除」を問題にしている。

しかし、ここでの「排除」とは、具体的にはどのようなことでなのであろうか? 「排除」というが、いったい「何からの」排除なのであろうか? 

二通りの答えを想定することができる。

①「史実(=事実)からの排除」
②「取り上げられることが全くない。全然注目されることがないという意味での排除」

保苅さんのいう「排除」とは、上記の二つのうちのどちらか、あるいは、これら両方を指す。このように予想することができる。

記憶論者・神話論者・人類学者に対する批判

保苅さんは、排除を問題にしている。では、排除とは何からの排除なのか? 

従来の歴史学による排除について言及した後、保苅さんは、記憶論者や神話論者や人類学者に対して、次のように批判する。少々長くなるが引用する。

これに対して、「僕たちは排除しないよ」っていうグループがいくつかあります。(中略)記憶論や神話論をやっている研究者たちは、たしかに排除しないんですけれど、そのかわり包摂しちゃうんですね。別の言い方をすると、記憶論や神話論は、アボリジニの人たちが実際に経験したという、その経験を無毒化してしまう。経験の無毒化とはどういうことかというと、要するに、「それは事実じゃないけれども、でも、それはそれとして重要ですよね」って言って、とにかく掬いあげるわけですよ。事実じゃないんだけれども、何かそこには大切なものがあるはずだと言って掬いあげる、あるいは、尊重する。でも僕はこの、「救いあげて尊重する」という行為の政治学を問題にすべきだと思います。尊重するとはどういうことか? たとえば、「アボリジニの人々は、ケネディ大統領がグリンジの長老に出会ったと信じている」と記述する歴史学や人類学は容易に可能なわけですよ。実際、呪術や信仰を論じている人類学の研究報告のほとんどが、霊的、呪術的、心的な経験を「……と見なされている」とか「……とされている」とか「……と信じられている」といったふうに記述します。 (中略) たしかにかれらの信念を尊重しているけど、「尊重」という名の包摂は、結局のところ巧妙な排除なんじゃないでしょうか。だってケネディ大統領が実際にアボリジニの長老に会ったなんて、研究者は誰も思っていないんだもん。思っていないんだけれども、「それはそれとして大切にしますよ」というジェスチャーだけはしている。(『ROH』p-26)

ここで注目すべきは、たとえ研究者がアボリジニの語りを取り上げたとしても、保苅さんは「それはジェスチャーにすぎない」と批判する、ということである。

つまりこの場合、先に私が提示した「排除」という言葉の二つの意味のうち、②は当てはまらないということになる。たとえアボリジニの語りを取り上げたとしても、批判の対象になるということは、下記のうちの②は、上記の引用文において保苅さんがいうところの「排除」の意味としては不適切ということである。

①「史実(=事実)からの排除」
②「取り上げられることが全くない。全然注目されることがないという意味での排除」

それでは、保苅さんはこの場合、①の意味において「排除」という言葉を使用しているのであろうか?

「リアル」

「排除」とは、アボリジニの語りが「史実(=事実)」として扱われない、ということを意味するのであろうか?

しかし、これではまだまだ不十分な読解だと思う。

ここでやっと「リアル」について検討することができる。

先の引用において保苅さんが、次のように述べていることに注目して欲しい。

たしかにかれらの信念を尊重しているけど、「尊重」という名の包摂は、結局のところ巧妙な排除なんじゃないでしょうか。だってケネディ大統領が実際にアボリジニの長老に会ったなんて、研究者は誰も思っていないんだもん。思っていないんだけれども、「それはそれとして大切にしますよ」というジェスチャーだけはしている。(『ROH』p-26)

上記より、保苅さんが、「アボリジニによる「ケネディ大統領がアボリジニの長老に会った」という語りを研究者は真に受けるべきである」と述べていることが読み取れる。「ケネディ大統領が実際にアボリジニの長老に会ったなんて、研究者は誰も思っていない」ことを保苅さんは問題視している。これは裏を返せば「ケネディ大統領は実際にアボリジニの長老に会ったと研究者は思うべきである。」と述べているに等しい。*1

つまり、アボリジニの語りを取り上げるだけでは不十分なのである。取り上げるだけでなく、さらに研究者は、その語りの内容を絶対に疑わずにそのまま鵜呑みにしなければ、アボリジニの語りを排除しないことにはならないのである。

このことは、保苅さんが次のような形で問いを立てる際に、よりはっきりする。

精霊とか神様とかの世界を、僕たちがもう一回リアルに引き受けることが、(中略)可能なのかどうか」(『ROH』p-28)

「グリンジの歴史家たちの歴史分析を、どうしたらリアルに引き受けることができるのか」(『ROH』p-37)

以上より、次のように断言することができる。

「排除」という言葉で、保苅さんがなによりも問題にしていたのは、「研究者はアボリジニの語りにリアリティを感じない」ということである。*2そして保苅さんは、研究者に対して、「アボリジニの語りを取り上げるだけでなく、その内容にリアリティを感じろ!*3」と要請している。

もちろん保苅さんは「アボリジニの語りを取り上げるだけでなく、その内容にリアリティを感じろ!」と明言してはいない。しかし、その内容にリアリティを感じないまま、アボリジニの語りを取り上げる研究者に対して、「本当は事実じゃないと思っているんでしょう?ジェスチャーしているだけでしょう?」と批判する保苅さんから、「研究者は現地の人の語りにリアリティを感じるべきだ!」という要求を読み込むことは、こちらの一方的な解釈とはいえないだろう。*4

「近代合理主義的」に「実証・検証可能」な「史実」とそうでない「史実」

ここから話が複雑になってくる。

「アボリジニの語りを取り上げるだけでなく、その内容にリアリティを感じろ!」という主張を行う一方で保苅さんはまた、次のようなことも述べている。

「(中略)人間の経験は、近代合理主義的に定義できるものも、それをはみ出してしまうものもあるわけです。その両者は歴史経験という意味では地続きなんですが、具体的な政治闘争とか、裁判の場面では、そのうちの、「近代合理主義的」に「実証・検証可能」な「史実」をよりわける必要がどうしても出てきますね。必要なら、そういったよりわけをやりましょう。」(『ROH』p-31)

「近代合理主義的」に「実証・検証可能」な「史実」があること。このことに保苅さんは同意している。つまり、「近代合理主義的」に「実証・検証可能」な「史実」と、「近代合理主義的」に「実証・検証可能」な「史実」とはいえないもの。この両者の区別が可能であることを、保苅さんは認めているということである。

ここで、少し立ち止まっていただきたい。先ほど確認したように保苅さんは、「アボリジニの語りを取り上げるだけでなく、その内容にリアリティを感じろ!」という主張の持ち主である。その保苅さんが、「近代合理主義的」に「実証・検証可能」な「史実」と「そうでないもの」という区分を受け入れている。

するとこの場合、保苅さんの主張は、正確にいうならば、次のように言い換えるべきなのであろうか?

「近代合理主義的」に「実証・検証可能」な「史実」と「そうでないもの」を区別してもいいが、たとえ「そうでないもの」であっても、研究者はそれをリアルに受け取れ。

この時点で私は悩み始める。

「近代合理主義的」に「実証・検証可能」な「史実」と「そうでないもの」を区分することを許しておきながら、「そうでないもの」に対してリアリティを感じろと保苅さんは言うが、このような芸当は可能なのだろうか?

ROH』において保苅さんが、カヤをリアルに感じた自分自身についてわざわざ記述するのは、研究者に対して、「現地の人の語りをリアルに受け取れ」と訴えたいがためだと思われる。

しかし、「近代合理主義的」に「実証・検証可能」な「史実」と「そうでないもの」が区別できることを認め、かつ、そのように区別する行為に対して同意を示すならば、「そうでないもの」にリアリティを感じることを同時に求めることなどできないと、私は思ってしまうのである。自分が「近代合理主義的」に「実証・検証可能」な「史実」ではないものとして位置づけた語りに対して、リアリティを持つことなど、できるのだろうか? このような疑問を持ってしまうのである。

「史実(=事実)」と「リアル」の関係

すでに私はだいぶ混乱している。迷いの真っ只中にいる。

しかしそれでも、次のように場合分けして、「史実(=事実)」と「リアル」の関係を整理してみたのである。

■「ケネディ大統領がアボリジニの長老に会った」という語りに対する研究者の態度

史実(=事実) リアル
×
×
× ×

上記の図は、「ケネディ大統領がアボリジニの長老に会った」という語りに対して研究者が取りうる態度のパターンを分類したものである。「この語りは「史実(=事実)」か?」「この語りは「リアル」か?」という二つの質問に対し、答えがYESならば○、NOならば×が対応している。

私は、保苅さんが研究者に要求している態度を、上記の①あるいは②あるいは③と見積もった。

しかし私は、②をすぐに却下した。なぜなら、保苅さんは現地の人の語りを「リアル」に感じることを研究者に求めているからである。

答えは、①か③のどちらかということになる。ここで私はおおいに迷った。保苅さんが、「史実(=事実)」と「リアル」を、どのように関係付けているのかが分からないので、私は迷った。そこで仕方なく消去法でいくことにした。

①はさておき、③のような態度を、人は取ることができるのだろうか? 

私は不可能だと思った。そんなことできるわけないと思った。「史実(=事実)」じゃない、と思ってしまう語りに「リアル」さを感じることなどできるわけがない。*5こう思った。

結局私は、保苅さんが研究者に求める態度を、迷いつつ躊躇しつつも、暫定的に①としてみたのである。

結論

以上が、私の迷いの全貌である。

「現地の人にとって「真摯な経験(リアルな経験)」であれば、それだけでこれらの経験を「史実」として扱うことが可能ではないか?」

私は、保苅さんの立てた問いを、上記のように要約した。ここでの「史実」とは、前出の表における「史実(=事実)」に他ならない。そして「史実(=事実)」とは、「リアル」であることが既に含意されている。

保苅さんは、「史実(=事実)」と「リアル」という言葉を、もう少し丁寧に掘り下げて記述するべきだったのではないか。これらの用語の使用のされ方は、あまりにもいい加減ではないだろうか。混乱は、この曖昧さに起因しているのではないかと私は考える。いくら『ROH』を読んでも、「史実(=事実)」と「リアル」という言葉の関係は、いっこうに分からない。

もしも、保苅さんの主張を正しく理解している方がいれば、是非とも指摘していただきたい。

蛇足

・研究者は現地の人の語りをリアルに受け取るべきという考え方について

現地の人が言及する「超自然的な存在」に研究者もリアリティを感じる必要はないと私は思う。別に感じてもいいが、感じなくてもいいと考える。つまり、どちらでもよいと私は思っている。「超自然的な存在」が含まれた語りを耳にした研究者は、「それは現地の人にとってはリアルな存在なんだな」という態度でその語りを受け取れることができれば、それだけで十分ではないだろうか? なぜ、研究者までも現地の人が言及する「超自然的な存在」にリアリティを感じる必要があるのだろうか? 私は分からない。そうできたほうが、より優れた知見が産み出されるとでもいうのだろうか? 繰り返しになってしまうが、「現地の人の語りにリアリティを感じた」と述べる研究者は、それだけを述べることに終わってしまうことが多いように思う。やはりそれだけだと、「それで?」と冷酷で邪悪な私は思ってしまう。*6 


・絶対間違っている読み

保苅さんは「現地の人による語りがいくら荒唐無稽な内容であったとしても、その語りは彼らにとってのリアルな体験に関するものであると捉えよ」と研究者に要求しているわけではないだろう。この程度のことなら、既にどの研究者もやっている。こんな当たり前のことをわざわざ保苅さんが主張するわけがない。

*1:ケネディ大統領が実際にアボリジニの長老に会ったなんて、研究者は誰も思っていないんだもん。思っていないんだけれども、「それはそれとして大切にしますよ」というジェスチャーだけはしている。」と述べる保苅さんに、私は次のような疑問も抱いている。「ケネディ大統領は実際にアボリジニの長老に会った」と思えない研究者が、この語りを大切に扱うことのどこが悪いのだろうか? 保苅さんは「「大切に扱う」ことと、「ケネディ大統領は実際にアボリジニの長老に会った」と思えることは同時成立すべきだ」と考えているようである。しかし私はそうは思わない。なぜならこのような保苅さんの主張は、明確な根拠を欠いており、どうして研究者が現地の人の語りを真に受ける必要があるのかが全く説明されていないからだ。いきなり唐突に「研究者は現地の人の語りを鵜呑みにせよ!」と言われても困る。尊重するだけでよいではないか。それで十分ではないか。なぜ研究者は現地の人と同じように感じなければならないのだろう? 「ケネディ大統領は実際にアボリジニの長老に会った」と思うことができない研究者でも、その語りを大切に扱ってもよいと私は考える。大切に扱う際に、「ケネディ大統領は実際にアボリジニの長老に会った」と思えている必要は全くない。ちなみに私自身は「ケネディ大統領は実際にアボリジニの長老に会った」とは思えない研究者である。「思えない」ということは、否定しているわけではない。判断を控えているといったほうが正しい。ケネディ大統領がお忍びでグリンジに行った可能性もあると私は考えている。まだ実証的な調査を自分でしておらず、さらに、証拠もつかめていないのに、「事実かどうか」を判断するこはできない。また、リアルに受け取ることもできない。すなわち私は、「ケネディ大統領が、その当時どこにいて何をしていたのかを実証的に明らかにしたうえで、アボリジニの語りを「事実」として受け入れるかどうか判断したほうがいいのではないか。」「もしかしたらケネディという同姓同名の別人がグリンジに来たのかもしれない。もしくは、ケネディという名ではなく、ケニディという名の白人がグリンジに来てケネディ大統領のふりをしたのかもしれない。あるいは、グリンジの住人の誰かがケネディ大領領に扮して、人々を勇気付けたのかもしれない。」「「事実」という分野の話ではなく、「リアルかどうか」という分野の話として、この語りを受け取ったほうがいいかもしれない。」という考えを頭にめぐらせつつ、「ケネディ大統領は実際にアボリジニの長老に会った」という現地の人による語りと対峙したい。頭ごなしに「そんなことあるわけないやん」と否定はしない(もしかしたら本当に来てたかもしれないから)。しかしだからといっていきなり盲目的にこの語りを「事実」として受け入れはしない。また、リアルに受け取りもしない。私は私なりに、現地の人の語りを尊重するつもりだ。もしも私が、ケネディ大統領がその当時グリンジに来てはいないということを実証的に証明できたならば、「彼らにとってはリアルな経験に関する語りなんだな」という態度で現地の人の語りを受け取るまでのこと。これが排除と呼ばれてしまうのは悲しいし、くやしい。そもそも、「ケネディ大統領は実際にアボリジニの長老に会った」かどうかについて、保苅さんは実証的な調査を行い、その真偽を確かめてみたのだろうか? おそらくそんな調査はしていないのではないか? もしも、実証的な調査をせずに、現地の人の語りだからといってそれを「事実」として鵜呑みにしているのならば、このような態度は研究者として危ういのではないか? リアルに受け取るだけならば、別に構わないのだが…。 2006/12/16追記

*2:まとめるならば、保苅さんは排除という言葉を、次の3つの意味で使用していると思われる。①「史実(=事実)からの排除」 ②「取り上げられることが全くない。全然注目されることがないという意味での排除」 ③「リアルに受け取られないという意味での排除」 このうち、①と③の違いを保苅さんが意識して行っているのかどうか、私は分からない。保苅さんは①と③を区別していないように思える。

*3:「その内容にリアリティを感じろ!」ではなく、「その内容を事実として受け入れろ!」が、「「それは事実じゃないけれども、でも、それはそれとして重要ですよね」って言って、とにかく掬いあげるわけですよ。事実じゃないんだけれども、何かそこには大切なものがあるはずだと言って掬いあげる、あるいは、尊重する。(中略) ケネディ大統領が実際にアボリジニの長老に会ったなんて、研究者は誰も思っていないんだもん。思っていないんだけれども、「それはそれとして大切にしますよ」というジェスチャーだけはしている。」と述べる保苅さんが、記憶論者や人類学者に対して抱いている本心として、より適切である。なぜならこの時点では、保苅さんは「リアル」や「リアリティ」という言葉を使用せずに議論を進めているからだ。つまりここでは、私が勝手に「リアル」や「リアリティ」という用語を使用して、保苅さんの本音とやらを明文化していることになる。なので、厳密に考えるならば、ここでの私による「その内容にリアリティを感じろ!」という要約は、不適切である。しかし、保苅さん自身も、「事実」や「史実」や「リアル(リアリティ)」について、これらを厳密に定義せずに曖昧に用いているので、私は私なりにこれらの言葉同士の関係を設定して議論を進めていくしかない。結局、ここで私が行っていることは、「事実」と「史実」を同じ意味の言葉として捉えることと、さらに、保苅さんが記憶論者や人類学者に暗に求めている「その内容を事実として受け入れろ!」という要求の、「その内容にリアリティを感じろ!」という言明への言い換え、である。 2006/12/16追記

*4:それとも、保苅さんは「事実じゃないとすぐに決め付けるのではなく、いったん立ち止まって現地の人による語りを吟味し、ちゃんと調べてから「事実じゃない」と判断せよ」と述べているのだろうか? これはないような気がする。保苅さんは、「事実かどうか調査する」ことについてあまり語らない。「リアルに受け取るか受け取らないか」という枠組みのうえでしかものを語らないように思える。「事実とは何か」という問題には、あまり関心がないようだ。

*5:そもそも、「この語りは「史実(=事実)」か?」という質問と「この語りは「リアル」か?」という質問を、互いに独立した質問として考えてもいいのだろうか? たぶん私は間違っている。両者はもともと同じ内容の質問ではないのか? ちゃんとフッサールとかクワインとかを読んで、その内容を理解したうえでじゃないと、「事実」や「リアル」という言葉を使用してはいけないような気がする。もっと勉強しなくちゃ。 2006/12/16追記

*6:私がここで行っている批判は、「保苅さんが位置する土俵は私の位置する土俵と異なる」という意味において、完全に的外れである可能性がある。保苅さんと私とでは研究の目的が異なっているのかもしれない。すなわち、保苅さんはなぜか分からないが「現地の人の語りに我々(研究者である自分自身を含めた)がリアリティを感じること。または、リアリティを感じることができなくても、それをリアルに受け入れようと努めることの重要性とその必要性の主張」を研究の目的にしている。一方、私は「人(例、現地の人)が、なんらかの語り(例、カヤ)にリアリティを感じることができているメカニズムを明らかにすること。そして、そのメカニズムが明らかにできたならば、その知見を生かして今度は自分自身がなんらかの語りにリアリティを感じることができるようになる方法を明らかにすること」を研究の目的にしている。もちろん、私も、現地の人の語りに、リアリティを感じられるものならば感じてみたいが、疑念ばかりがわいてしまい、入り込めない。その点、保苅さんはすっと向こう側に行ってしまえているので、非常に興味深い。なぜ保苅さんはカヤをリアルに感じることができたのか? 私はむしろ、この問題にこだわりたい。ていうか、保苅さんは、どうしてこの問題について、何も発言していないのだろう? 一番重要な部分が省略されて、「私もカヤをリアルに感じました(←このように断言しているわけではないのだが)。」という結論だけを見せられているような印象を受ける。アボリジニと共に生活していれば、自然にカヤをリアルに捉えることができるようになるとでもいうのだろうか? 不思議だ。ファブレサーダも不思議だけど、保苅さんも不思議だ。なぜすんなりと向こう側に行けるのだろう? 私は、身近な他者の言うことでさえ、疑ってしまうのに。てんぷら屋のおばさんが「神や霊の声が聞こえる」といくら言っても、「この人には聞こえるんだろうな。。」としか思えない私が、やはりどこかおかしいのだろうか? 私には「暖かみ」が不足しているのだろうか? 「暖かみ」のない私がおかしいのだろうか? 「暖かみ」が欠如しているのならば、私はこれを補完すべく、何か特別なことをしなければならないのだろうか?