見えるんです問題
沖縄調査体験通じ生命の神秘に迫る 学者マンガ家・都留泰作さん
次第に調査地の生活に慣れ、「その環境特有の統覚習慣」を人類学者が身に着けていくプロセス・メカニズムが、詳細に説明されることはない。これまで私はこのことを事あるごとに問題視してきた。
しかし、最近は、生活すること自体が、既にそれそのものなのではないかと考えている。
たとえば、ある集団で生活していくにつれ、その集団で共有されている独得のジャーゴンやイディオムが自然に口をつくようになった時、あるいは、その集団において是とされる行為や活動に、ことさら違和感を感じなくなった時、または、周囲の人間による「美人の特定」にある一定の理解を示すことができるようになった時、調査者の「統覚習慣」すなわち「世界の見え方」は、その場特有のそれに近いものに更新されたということができる。ファブレ=サーダや、保苅さんや、石井先生の身の上に生じた変化も、これらの現象の延長線上にあるといえる。そしてこの現象は自然に生じるため*1、「プロセスやメカニズムを説明せよ」と口うるさく述べることに一体どのような意味があるのか。と、このように思うようになったのである。
「そこに行き、そこで暮らしている人々とともに生活せよ。」
この指示に従えば、「世界の見え方」は変化する。ただそのスピードや規模に個人差があるというだけの話ではないだろうか。プロセスやメカニズムにこだわるよりも、その場の「統覚習慣」が既存のそれとどのようにどの点において異なっているのか、そしてそれはどのような偏差を備えているのか。このことの把握に努めるほうが実り多いような気がする。例えば、ベイトソンは「統覚習慣」あるいは「習慣」と呼ばれるものの研究方法について、次のように述べている。
事象の流れとそれを経験する人間の間には常に、言語や芸術や科学技術などの文化的装置が介在している。それらの媒体は、あらゆる地点で統覚習慣のネットワークによって構造づけられているのである。要するに、これらの習慣についてのわれわれの知識の源泉は、心理学のラボに限られるのではないということだ。異文化をたずね、そこにあらわな、または秘めやかなかたちで存在している、われわれ自身のものとは異質の習慣を採集するというのも、こうした漠然として見定めがたい習慣のリストを豊かなものにしていくひとつの有効な方法だろう。世界各地の対照的な習慣のパターンの比較研究から、得るところは大きいはずだ。最も大きな収穫が期待できそうなのは、実験心理学の洞察と文化人類学の洞察とを組み合わせる方法だろう。まず、ラボで設定される学習コンテクストのそれぞれについて、それと関係するのがどんな統覚習慣なのかを問い、次にその習慣が一般的に見られる文化を、世界の民族の中に捜し求めていくというやり方だ。あるいは逆向きに、”自由意志”その他の習慣について、「この習慣を身につけさせるには、学習実験の中にどのようなコンテクストを作ればよいのか」をたずねていくというのも、それらの言葉の定義をより厳密で実践的なものにするのに有効である。つまり「このネズミを(あたかも)自由意志を信じて行動する(ような印象を繰り返し与える)ネズミにしていくには、迷路や問題箱を、どのように工夫すればよいのか」という種類の問いを設定するわけだ。」(ベイトソン 2000:249-250)
世界は、実験室に溢れている。人々はあまた存在する実験室で、それぞれどのような習慣を身につけさせられているのか。人類学者は、このバリエーションの採集に励み、映像や文字の形で、あるいは、自らが記憶媒体(メディア)となり自身の体にそれらを刻印する形で、記録する。
この最後の「自らが記憶媒体(メディア)となること」という点について、私は長年、「そのプロセス・メカニズムをまず明らかにするべきだ」と主張してきたのであるが、現在は、「なんらかの習慣の体得は、その習慣を身につけている人の傍に身を置くだけで完了する。細かく見ればなんとでも新しいことは言えそうだが*2、ある習慣の習得は、結局、繰り返し学習の成果である。」という身も蓋もない事実をそのまま受け入れるしかなく、大脳生理学者でも知覚心理学者でもない人類学者は、論文上では、これ以上何も言えないのではないかと考えているわけである。
だから、ナチュンという漫画において、主人公の青年が、調査地である沖縄の離島で、超常的な存在を知覚する場面が描かれていて、しかしそのプロセスやメカニズムは不問のままだとしても、私は文句は言わない。
「プロセスの解明は?メカニズムの説明は?」とにじり寄る前に、「さまざまな文化の人間が、それぞれの生のあり方にしたがってどのような統覚習慣を身につけているのか」(ベイトソン 2000:250)という問いを念頭にして、それを目撃し、記録していくこと自体に面白さを感じたい。
「見えるんです問題」について、最近私はこのように考えている。
*1:「自然に生じること」は、「プロセスやメカニズム」に拘らないことを、積極的に根拠付けない。林檎も木から自然に落ちるし、性交すれば自然に妊娠するからといって、それらの「プロセスやメカニズム」に拘らないことが何故正当化されるのだろうか? 正当化などできないだろう。だからここで私は、「自然に生じること」を理由にして、「プロセスやメカニズム」に拘らないことを正当化するのではなく、「人類学者が明らかにできる「プロセスやメカニズム」には限界がある」という理由に基づいて、「プロセスやメカニズム」に過剰に拘ることをあきらめると述べるべきではないだろうか? あるいは、もっと分かり易く、「霊が見える。小人が見える。妖術に恐怖を感じる。」と述べる人類学者が、どうしてこのような「統覚習慣」を身につけることができたのかを首尾よく説明する理論の構築は難しそうであるため、この問題には深入りしないほうがいい、この問題は無視したほうがいい、と述べるべきではないか?