ダブルバインドの見分け方─「論理階型」と「学習2」と「ダブルバインド」の関係についての現時点における私の結論

前回のエントリーでは、ベイトソンダブルバインドに対する私の疑問を提示した。

qianbianwanhuaやMはまによる丁寧かつ有益なコメントにより、ダブルバインドに対する分からなさは、ある程度は解消されたように思う。

以下、私の現時点におけるダブルバインドの理解度を示すために、ダブルバインドとして紹介される様々な事例を検討し、「ダブルバインドの見分け方」を説明していきたい。

ダブルバインドの定義の確認

まず、ダブルバインドの教科書的な定義から見ていきたい。

ベイトソンによれば、ダブルバインドにおいては、次の2つの要件が満たされていることが必須である。(ベイトソン 2000:294-295)

  1. 第一次の命令
  2. より抽象的なレベルで第一次命令と衝突する第二次の命令

ここで、2は、1のメッセージに対するメッセージであり、1が存在している論理階型とは異なる論理階型に存在していることに注意しなければならない。

また、1は、次のような2つの形を取り得ることも、忘れずに留意しておきたい。

a─「これをすると、お前を罰する」
b─「これをしないと、お前を罰する」

簡単ではあるが以上が、ベイトソンが定義するところのダブルバインドの定義である*1

ダブルバインドの見分け方

では、早速ダブルバインドの事例を見ていこう。

まず、非常に分かりやすい事例として、「分裂病患者の母親によるダブルバインド」を取り上げる。

分裂病患者の母親によるダブルバインド

分裂症の強度の発作からかなり回復した若者のところへ、母親が見舞いに来た。喜んだ若者が衝動的に母の肩を抱くと、母親は身体をこわばらせた。彼が手を引っ込めると、彼女は「もうわたしのことが好きじゃないの?」と尋ね、息子が顔を赤らめるのを見て「そんなにまごついちゃいけないわ。自分の気持ちを恐れることなんかないのよ」と言いきかせた。患者はその後ほんの数分しか母親と一緒にいることができず、彼女が帰ったあと病院の清掃夫に襲いかかり、ショック治療室に連れていかれた。(ベイトソン 2000:306)

さてベイトソンは、上記の事例について、次のように分析している。

分裂病者の母親は、少なくとも二つの等級にまたがったメッセージを発しつづけている、とわれわれは考える。議論を簡単にするため、ここでは等級を二つだけに限定しておこう。その二つとは、大まかに、次のようにまとめることができるものだ。

a──子供が彼女に近づくたびに生じる敵意に満ちた、あるいは子供から身を遠ざけるような行動。
b──彼女の敵意に満ちた、子供から身を引くような行動を、子供がそのまま受け止めたとき、自分が子供を避けていることを否定するためにとられる、愛の装い、あるいは子供へ近寄っていくそぶり。

(中略)

すなわちここで「愛」のメッセージは、「敵意」のメッセージについて言及するメタメッセージになっている。両者はメッセージの等級を異にする。と同時に、この高次のメッセージは、その言及対象である低次のメッセージ(敵対的に身を引く態度)の存在を否定するものである。(ベイトソン 2000:302)

この「分裂病患者の母親によるダブルバインド」は、以下の図式で理解することができる。

第一次の命令 → 「身体をこわばらせること」による「こっちへ来るな」という命令
より抽象的なレベルで第一次命令と衝突する第二次の命令 → 「もうわたしのことが好きじゃないの?」という言葉による、「「第一次の命令」に従うことを禁止する命令」(=「こっちへ来るな」という命令に従うな)

この事例は、非常に理解しやすいダブルバインドの事例である。第一次の命令として、「身体をこわばらせること」があり、より抽象的なレベルで第一次命令と衝突する第二次の命令として、「もうわたしのことが好きじゃないの?」というセリフがある。まさしくこの事例は典型的なダブルバインドの事例といえる。

では、次に、前回のエントリーにおいて私の頭を悩ませた「犬のダブルバインド」を見てみたい。

犬のダブルバインド

実験室で円と楕円を区別するよう訓練された犬。この犬は、円とも楕円とも言い難い図形を提示されたとき、精神的混乱の症状を示した。

ベイトソンはこの事例もダブルバインドであると述べる。

実験の順を追ってみよう。まず最初に、「これは識別のコンテクストだ」というメッセージが犬に伝えられる。そして問題の難度がアップしていくごとに、そのメッセージが強調されていく。ところが、”問題”が識別不能の段階に達したところで、コンテクストの構造は一変する。犬が状況判断のよるべとするコンテクスト・マーカー(ラボ特有の臭いや、実験中の拘束ベルト)が、自分を欺くためのものでしかなくなってしまう、そういう状況が現われるのだ。この実験シークェンス全体が、学習2のレベルでの誤りに、犬を巧妙に誘導する仕掛けになっているのである。
わたしはこれを、犬が典型的な「ダブルバインド」状況に置かれた、という言い方で捉えている。この状況は分裂症生成的である。(ベイトソン 2000:405)

前回のエントリーにおいて私は、上記の事例に、「第一次の命令」と、「より抽象的なレベルで第一次命令と衝突する第二次の命令」を見つけ出せずにいた。「目の前の図形が円か楕円であるか識別せよ」という命令を発するものとして、ラボ特有の臭いや実験中の拘束ベルトに着目することはできたのであるが、これが「第一次の命令」なのか、「より抽象的なレベルで第一次命令と衝突する第二次の命令」なのかを判断することができず、さらに、確実に存在しているべきもう一つの命令も見つけ出すことができなかったのである。

しかし、Mはまからの助言により、現在私は、この事例を次のような図式で理解することができている。

第一次の命令 → 「ラボ特有の臭いや実験中の拘束ベルト」による「目の前の図形が円か楕円であるか識別せよ」という命令
より抽象的なレベルで第一次命令と衝突する第二次の命令 → 「目の前の図形は円とも楕円とも区別し難い」という事実による、「「第一次の命令」に従うことを禁止する命令」(=「目の前の図形が円か楕円であるか識別せよ」という命令に従うな)

「目の前の図形は円とも楕円とも区別し難い」という事実が命令を発しているという点において、この事例は、「分裂病患者の母親によるダブルバインド」の事例と大きく異なるが、構造においては、ベイトソンダブルバインドの定義を十分に満たしているといえる。

「目の前の図形は円とも楕円とも区別し難い」という事実を、命令を発しえるものとして眺めること。このことを、前回のエントリーにおいて私は達成できなかったのである。

次に、「禅の公案のダブルバインド」を見てみたい。

禅の公案のダブルバインド

ベイトソンは、下記のような禅の公案に言及する。

「禅の修業において、師は弟子を悟りに導くために、さまざまな手口を使う。そのなかの一つに、こういうのがある。師が弟子の頭上に棒をかざし、厳しい口調でこう言うのだ。「この棒が現実にここにあると言うのなら、これでお前を打つ。この棒が実在しないと言うのなら、お前をこれで打つ。何も言わなければ、これでお前を打つ。」」(ベイトソン 2000:296)

そしてベイトソンは、「分裂症者の人間はたえずこの弟子と同じ状況に身を置いているという感触をわれわれは抱いている。」と述べる(ibid)。

では、この禅の公案もダブルバインドと呼べるのだろうか? 答えはイエスだと現在の私は思う。

当初、この禅の公案からも私は、2つの命令(第一次命令と第二次命令)を見つけ出せずにいた。しかし、qianbianwanhuaによるコメントから、「ベイトソンは論理階型理論に基づいて世界を眺めたがる。メッセージの受け手(あるいは観察者)が、第一次命令と第二次命令をとにかく設定しさえすればよいのである。」という示唆を受け、この禅の公案も、ダブルバインドとして眺めることが可能であるという結論に至った。

すなわち、この事例は、以下の図式で捉えることが可能である。

第一次の命令 → 「何も言わなければ、これでお前を打つ。」という言葉による「棒の有無について答えよ」という命令
より抽象的なレベルで第一次命令と衝突する第二次の命令 → 「「ある」と答えれば打たれ、「ない」と答えても打たれるため、「ある」とも「なし」とも答えることができない。」という事実による、「「第一次の命令」に従うことを禁止する命令」(=「棒の有無について答えよ」という命令に従うな)

ちなみに、「棒があるかないか」という二者択一に陥って思考する限り、この公案からは逃れられない。この場合弟子は、「棒があるかないか」という問いにこだわってはならないのである。

この公案は、「目の前に提示された問いから距離を置くこと」のトレーニングといえそうである。その意味では、先に見た犬のダブルバインドと非常によく似た内容といえる。また、前々回のエントリーで取り上げた、イルカのダブルバインドも、この禅の公案とほとんど同じ構造といえる。これら3つのダブルバインドから得られる教訓は、「とらわれてはならない」というものといえそうである。

以上、かなり駆け足であるが、「分裂病患者の母親によるダブルバインド」と「犬のダブルバインド」と「禅の公案のダブルバインド」を概観してきた。これらがダブルバインドである理由は十分に示せたように思う。

最後に、ベイトソンの著作以外から、ダブルバインドとして言及されている事例を取り上げ、「ダブルバインドの見分け方」のまとめとしたい。取り上げるのは、社会学者の上野千鶴子氏による『生き延びるための思想』の冒頭部分に登場するダブルバインドである。

フランス人のダブルバインド

上野は『生き延びるための思想』を、あるシンポジウムのエピソードから始める。

人権概念が争点となったこの日仏シンポジウムにおいて、日本側に対して行われたフランス人女性による問いかけを、上野は「ダブルバインドな問い」として報告している(上野 2006:3)。その問いは次のような問いであった。

「人権という概念はフランスが生んだ概念だが、あなた方はそれを普遍概念と認めるか?」(上野 2006:3)

上野はこの問いについて次のように分析する。

「イエスと答えれば「フランスが生んだ概念を、あなた方アジアの辺境の国民も受け容れている」とフランスの普遍主義を肯定することになるし、他方ノーと答えれば、「アジア人は人権概念を受け容れようとしない蒙昧な民族だ」ということなろう。」(上野 2006:4)

さて、果たしてフランス人女性が発した問いは、上野が言うところの「ダブルバインドな問い」といえるのだろうか?

次の図式で捉えるならば、フランス人の問いは、ダブルバインドと呼べると私は考える。

第一次の命令 → 「あなた方はそれを普遍概念と認めるか?」という言葉による「イエスかノーで質問に答えよ。」という命令
より抽象的なレベルで第一次命令と衝突する第二次の命令 → 「イエスと答えれば「フランスが生んだ概念を、あなた方アジアの辺境の国民も受け容れている」とフランスの普遍主義を肯定することになるし、他方ノーと答えれば、「アジア人は人権概念を受け容れようとしない蒙昧な民族だ」ということなる」という推測による、「「第一次の命令」に従うことを禁止する命令」(=「イエスかノーで質問に答えよ。」という命令に従うな)

なにやら無理やりな雰囲気がないこともない。しかし、第一次命令と第二次命令を強引に設定することは可能であるため、上記の事例もダブルバインドといえる。

以上のことから、上野がダブルバインドと呼ぶところのフランス人の問いもダブルバインドであると私は考える。

フランス人のダブルバインドに関する疑問

しかし、ひとつ引っかかることがある。

そもそも、問いを発したフランス人は、どのような意図で問いを発したのかということだ。

上野が鋭く予想するように、「イエスと言わせてフランスの普遍主義を肯定させよう。たとえノーと言われてもそのような返答をすること自体、日本側の無知蒙昧を意味することになる。」と狡猾に意地悪く考えて、フランス人は問いを発したのだろうか?

もしもそうであるのならば、上野の言うとおり、フランス人の問いはダブルバインドな問いであろう。

しかしもしも、この問いは、「イエスと言わせてフランスの普遍主義を肯定させよう。たとえノーと言われてもそのような返答をすること自体、日本側の無知蒙昧を意味することになる。」という計算に基づいて発せられたものではなく(=この問いに対する答えに対して、フランス人もことさら何か言い返そうと目論んでいたわけでもなく)、日本側に「人権ってどう思う?とても大事なものだと思っている?」という意味での単なる確認行為のために投げかけられたものであるならば、フランス人の問いは、ダブルバインドにはあたらないのではないか?

ここで、犬のダブルバインドを想起していただきたい。学習2を達成していたからこそ、犬はダブルバインドに陥ることができた。つまり、ある程度の知識がなければ、ある程度の適切な学習を経なければ、犬はダブルバインドで苦しむことができなかったのである。

そう考えると、フランス人の問いに対して、そこにダブルバインドを感知できる人間も、限られてくるとはいえないだろうか? すなわち、上野はフランス人の問いにイエスと答えることと、ノーと答えることがもたらす最悪の帰結を予想できるぐらいに知識があるために、一般の人が陥ることができないダブルバインドに自ら陥ることができてしまっている可能性は考えられないだろうか?

また、次のことも指摘できるかもしれない。上野のなかでは、「質問に対してはイエスかノーのいずれかで答えなければならない」という不文律が存在しており、それが第一次命令として働いたからこそ、フランス人の問いをダブルバインドとして眺めることが可能となった。

まとめよう。「質問に対してはイエスかノーのいずれかで答えよ」という第一次命令が勝手に脳に起動するような環境で、上野はこれまで生きてきたこと。そして、質問にイエスと答えることやノーと答えることが、どのような帰結をもたらすのかについて敏感にならざるをえず、さらに、そのことについて思考する際に利用できる情報リソースに恵まれていたこと。このことが、フランス人による問いに上野がダブルバインドを感じとることを可能にしているのではないか?

フランス人の問いに対しては、別の論者より、「イエス&ノー」という回答がなされた(上野 2006:4)。そのため、イエスと答えたときとノーと答えたときに、どのような結末が実際に到来したのかについては、想像の域を出ない。先に示した、フランス人の問いに関するダブルバインド図式において、「より抽象的なレベルで第一次命令と衝突する第二次の命令」を、「「イエスと答えれば「フランスが生んだ概念を、あなた方アジアの辺境の国民も受け容れている」とフランスの普遍主義を肯定することになるし、他方ノーと答えれば、「アジア人は人権概念を受け容れようとしない蒙昧な民族だ」ということなる」という推測」というように、「推測」という言葉を私が用いたのは、このような理由による。

もしもイエスという回答の後に、フランス人が勝ち誇った顔で、「そうですか。フランスを普遍として認めるのですね?」という確認をしたならば、あるいはノーという回答の後に、「これだからアジア人は駄目だ。」というような発言をしたならば、私は上野がフランス人の問いをダブルバインドと呼ぶことに何の異論もない。

ところで上記の分析は、私自身にもあてはまるように思う。ダブルバインドを様々な場面で見出すことに慣れた私は、物事をなんでもかんでもダブルバインドとして眺める習慣が付いてしまった人間といえるからである。このような私は、他人の何気ない質問や言葉やジェスチャーに、勝手にダブルバインドを見出す可能性があるのではないか? 

他者による何らかのメッセージに対して、勝手に感知してしまうダブルバインドがあるような気がしてならない。

参考文献

精神の生態学

精神の生態学

生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠

生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠

*1:他にも第三次命令なるものがあるが議論を簡潔にするために割愛する。