尊敬するid:ueyamakzkさんが、私のコメントに言及して下さったので、その記念に思い付いたことを書き留めておく。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20091126
関係をチェックする仕組みの必要性とその不可能性
お互いに前向きな気持ちで集まればお互いに良い存在になれる、などと思ったら大間違い。 私たちは、関係を持とうとするだけでお互いに power を生きる。 考えるべきは、私たちが「すでに生きている暴力」であって、アリバイで自分を押しつけることではない。 自分だけを一方的に正当化するような強引さは、長期的には維持できない。from 野生の関係
《リアルさ》は、単に消費財ではなくて、集団的意思決定の致命的ファクターであり、リアルさの生きられ方は、共同体ごとに違っている。 あるリアリティが支配している場では、別のリアリティは排除・抑圧されます。 この生身の政治は、技術環境がどんなに進んでも残るのではないか。from 代謝というチャレンジの、環境と技法
我々は放っておけば互いに搾取し合う存在なのだと私は考えている。例えば、いくら私がueyamakzkさんを尊敬していたとしても、もしも私とueyamakzkさんが友人関係や職場関係といった何らかの関係に身を置くことになった場合、我々は互いにいくらか侵襲し合うと思われる。
侵襲は、私の息に含まれているインフルエンザ等のウィルスによるものから、なんらかの作業・仕事を課したりすることや、食べ物を奪うこと等と多岐に渡る*1。会話だけに限定した場合、最も容易に確認できるのは、お互いの世界観の違いに起因したディスコミュニケーションであろう。我々は全知全能では決してないため、間違ったこと*2を述べて相手を自分の主義・主張に取り込もうとしたり、相手の言葉を否定したりする。そこには「話が通じない」という断絶だけがある。まさに、「相対主義の中では、誰が正しいのかもよくわかりません」という状況が容易に想像できる。
そして、仮に、「関係をチェックする仕組み」なるものが存在し、これを実際に導入したとしても、同様の問題が生じる。関係をチェックする際に何をどのようにチェックすればいいのかに関するルールが、最初から普遍性を保持している保障はない。別の公理系がもう一つ増えただけの状態にしかならない。
また、何らかの関係に例えば、関係の客観的な監視者として民族誌家を放り込んで、参与観察法による厚い記述をその関係について試みさせることにより、まずは検討材料としての関係そのものを把握しようとすることにも同様の問題が生じると考えられる。なぜなら民族誌家も、ある特定のフィルターを通してしか現象*3を記述できないからである。唯一可能なことは、ICレコーダーやデジタルビデオカメラといった機器を用いて、関係をなるべくそっくりそのまま写し取ることのみではないかと思われる*4。
考えうる最善の策として、「関係をチェックする仕組み」の設計図をあらかじめ事前に取り決めたうえで、なんらかの関係をスタートさせ、その関係に、「関係をチェックする仕組み」を組み込むということが挙げられる。
しかし、これも駄目である。「関係をチェックする仕組み」の仕様を確定させる作業自体が、個々の人間の様々な思惑により難航するからである。「話の通じない」他者との共同作業自体の困難さが問題になっているのに、よりによって共同作業により、共同作業の在り方をチェックする仕組みを作ることなどできるわけがない。
現時点での結論
精神科医とクライアントの関係に留まらず、会社組織や大学の研究室や家族といったありとあらゆる人の集まりにおいて、「関係をチェックする仕組み」の必要性を私は感じるのであるが、それをどのように作り出し、さらに、それをどのようにして関係に埋め込めばよいのか、私も良く分からない。
一人ひとりが芸術家として自己成型し、「自分自身が「関係をチェックする仕組み」になろう」と試みることしかできないのではないかと私は悲観している。
*1:我々は個人差こそあれ、最終的には自分を優先したい・自分を心地よい状態に置きたいとある程度は独善的に欲望すると考えられる。この欲望に基づいて行う他者とのやりとりには、フェアでジェントルな申し出や主張に見えるとしても、他者を自分の思うとおりにコントロールするための工夫が含まれているのではないだろうか。例えば、皆で鍋料理を食べているとき、和気藹々と鍋をつつく人々は、自分の食料を確保するためにそれなりに他者に不寛容になっているのではないだろうか。仕事を一緒にするときも同様に、なるべく自分の負担を少なくし、他人に負担をやんわり押し付けようとするのではないだろうか。
*2:それ自体の正しさを証明することができない公理系に照らし合わせることにより、誤りとして初めて認識されるものであるが。
*3:さらにそもそも現象とは、目の前にどんと最初から存在しているのではなく、観察者自身が観察することによって初めて立ち現れるものといえる。知覚の比喩を用いて言うならば、視力が4.0なら見えるが、視力が0.1だと見えないものは、視力が0.1の人間にとっては存在しないということになる。ベイトソンに言及して説明するならば、ダブルバインドの理論を知らない観察者は、ダブルバインドという現象を報告しにくいと思われる。あるいは、ダブルバインドの理論を知る観察者は、やたらダブルバインドばかりを報告しがちになると思われる。
*4:そしてこの写し取られた関係について、「関係をチェックする仕組み」がチェックを働かせるということになるのであるが、ここで再び相対主義の問題に取り組まざるを得なくなる。「AさんがBさんに厳しい形相で言い寄る場面」が「いじめ」なのか「糾弾」なのか、観察者とAさんとBさんとの間で「現象の見え方」に関する争いが生じる可能性が高い。しかし民族誌家はAさんとBさんと自分自身が、一体どこまで認識を共有できるのか、一体どれだけの差異が三者の間に存在しているのかを捉えることまでは必ずできる。この三者がかろうじて共有している認識にうまく基づいて「共通のルール」を模索することはできるのではないか?