最近脳内をめぐった言葉と近況報告

  1. イルコモンズさんが逮捕されたらしい。心配だ。
  2. 今年の夏は、20代最後の夏だ。あと半年で30になるのか。あまり実感がない。
  3. 日中は快晴なのに夕方は雨が降りそうな天候が続いている。洗濯物が気になってしょうがない。
  4. 相変わらず仕事が忙しい。早起きしていっきに片を付けたい。
  5. あと何年、私は生きてしまうのだろう。いつ私は死ぬのだろう。それが事前に分かれば、優先すべき行動を簡単に決めることができるのに。例えば、3ヶ月後に死ぬことが分かっていれば、私は迷わず、いまでもいとしく思う人々ひとりひとりに会いに行き、死ぬ前の挨拶をする。その後で、映画鑑賞や読書や音楽鑑賞に耽り、感動しまくりたい。あと、カラオケに行きたい。手打ち蕎麦たかはしで田舎そばを食べたい。実家の近所にあるラーメン屋三平で味噌ラーメンを食べたい。北九州の市場でトマトを食べたい。
  6. あと100年もすれば、確実に自分はこの世から消えてしまえることを、実感したい。すべての事象が新鮮に感じられるに違いない。
  7. 今日の夜風はとても気持ちよい。
  8. もしも会社や客先で沖縄口を私が使い出したならば、「何を言っているのか理解できない」「ふざけている」「社会人らしくない」という理由により、周囲はその行いを禁止しようとするだろう。あからさまに禁止しようとはしないにしても、あまりいい顔はしないだろう。このような状況において私が、「植民者の言葉をなぜ使わなければならない? 私は堂々と沖縄口を使うぞ!」と怒りだすことに、どれほどの意義があろうか? 既に誰もが沖縄を、日本の一部だと自明視している状況において、このような発言をすることに、どのような価値があるのだろうか? 植民者も被植民者も存在しない場所で、「植民者/被植民者」という枠組みで思考するように周囲へ働きかけることに、なんらかの利益を期待することができるだろうか? 相手が、自分自身を、被植民者にとっての植民者として実感することが不可能な状況において、相手を植民者扱いすることに、何のメリットがあろうか? メリットなどひとつもなく、むしろこのような行為は、相手に植民者としての自覚を持ってもらうための積極的な働きかけであり、相手を「被植民者にとっての植民者」として覚醒させてしまう危険性を孕んでいるのではないだろうか? もしも相手が植民者としての自覚を持つに至った場合どうなるか? 単に私は圧倒的に不利な立場に置かれてしまうだけではないだろうか? 植民者が被植民者に優しくしてくれるわけがない。つまり何のメリットもない。「植民者/被植民者」という枠組みで思考することや、それを周囲に精力的に学習させることは、これらの言葉に何のリアリティも感じない人々が大半である現在において、完全に無駄な行為であるばかりか、植民者は被植民者を支配するのが当たり前ということを考慮するならば、自殺に等しい行為のように思える。わざわざ現在の状況を、植民者と被植民者という言葉からなる文脈で捉えて、一体何が得られるというのだろうか? せいぜい被植民者として自分自身を捉えている人の気分がすっきりするだけではないか? 気分がすっきりするだけでは意味がない。もっと、別の語り口や戦術が必要ではないか?
  9. 会社の勉強会で、尊敬する催眠術師であるミルトン・エリクソンを紹介した。足が大きいことを気にしてひきこもりになってしまった少女を、エリクソンが治療した事例を引用し、交渉を有利に運ぶための技術の重要性を主張した。今回は、「本当に達成したい目的は相手に悟られてはいけない」という技術を学んだ。エリクソンは少女の足を思いっきり踏みつける。あまりの激痛に悲鳴をあげる少女に、エリクソンは次のような言葉を浴びせる。「が見てわかるくらいに足がでかかったら、こんなことにはならなかったんだぞ」(ジェイ 2001:25) その後少女は、なぜか外に出かけることができるようになる。「あなたの足は大きくない。小さいです。」とあからさまに伝えるのではなく、実際に足を思い切り踏んだ上で、「あなたの足は小さすぎて、目立たないから、男である私はあなたの足を踏んでしまった」と伝えるところに技がある。偶然を装い、少女の足を踏みつけて、「自分の足は小さすぎるから、踏まれたのだ」と理解させるところにエリクソンのいやらしさ(巧みさ)がある。上記のエリクソンによるセリフの効果は、「エリクソンは少女のひきこもりの治療のために来訪したということが少女には秘密にされていたこと」に多くを負っている。エリクソンは、少女が彼の言動を疑うことができない状況を意図的に作り出して、少女に働きかけた。エリクソンが少女の足を踏み付けた場所は少女の実家であり、エリクソンの訪問の目的は、あくまで少女の母親の診察ということになっていた。つまり母親の診察時に少女は、エリクソンに足を踏まれたのである。徹底的に「偶然に」。そして、「が見てわかるくらいに足がでかかったら、こんなことにはならなかったんだぞ」と少女はエリクソンに言われたのである。少女は、実際に自分の足がエリクソンに踏まれてしまったことにより、「エリクソンが自分の足に気付くことができなかったこと」を自ら認めざるを得ない。「母親の診察に来た医者が、自分の足をわざと踏み付けるという可能性」を想像することは難しいため、少女は「自分の足は目立たなかったのだ。だから踏まれたのだ。つまり自分の足は決して大きくなく、むしろ小さい。」ということを納得せざるを得ない。無理やり納得させられたわけではなく、自らそのように思考するよう、エリクソンに己の思考の道筋を整備されてしまったのである。かくして問題は、極めて論理的*1に解決された。みんなもエリクソンのように胡散臭くなろう。

ミルトン・エリクソン 子どもと家族を語る

ミルトン・エリクソン 子どもと家族を語る

*1:クライアントである少女にとって非常に論理的に。「私の足は大きくなんかない。なぜなら、私の足が小さいあまりに、それに気付けなかった人が私の足を実際に踏んだし。」と少女は理解したはずである。