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2010年12月4日に渋谷で起きたひどい事件について

国家と戦争

1/16にTwitterにて常野さんid:toledから以下のようなダイレクトメッセージをいただきました。

もしよろしければ、ブログでの紹介・批判・連帯表明をお願いします。→ http://ow.ly/3EDuj

メッセージをいただいてから既に2週間近く経ってしまいましたが、上記リンク先の記事について思うところを書かせていただきます。

上記リンク先の記事をスクロールした際に真っ先に頭に浮かんだ言葉は、「なんだろうこの名前は?」というものでした。黒い彗星。ガンダムにそういう名称があったような気がしたので、「それにちなんだネタなのだろうか」という先入観を持ちました。また、黒い彗星さんがペットボトルを路上に放置することに対しては「なんでペットボトルを路上に置くのだろう?ちゃんとゴミ箱に捨てたらいいのに」という感想を抱き、何となく、鼻持ちならないものを感じました。

しかし、他のブロガーによる記事や、黒い彗星さんのtwitterや、上記ブログから情報を収集していくにつれ、「12/4に渋谷でひどい事件が起きた」ということが実感されてきました。

12/4に起きた事件のひどさは「集団暴行事件があり、暴行の加害者が放置され、暴行の被害者が逮捕された」という一点に集約できると思います。

なぜ暴力を振るった側が放置され、振るわれた側が逮捕されるのか? 

意味が分かりません。

なぜこのようなことが起きるのか?

先ほど、米津篤八さんによる「黒い彗星報告集会によせて」という文章を読み、私なりに今回の事件を理解することができました。

つまり、今回の事件は、「日本人ではない人間」に対する差別行為です。あるいは排除行為と言っていい。

「「日本人ではない人間」は排除してよい。何をしてもよい。殴ってもよい。蹴ってもよい。殺してしまってもよい。」という考え方に私は反対します。

なぜなら、「日本人ではない人間」として認識される可能性が、私にはあるからです。私は徹頭徹尾、自分が被害者になる可能性を重要視して、あくまで自分のために、上記のような排外主義的な考え方に反対します。

私の出身は沖縄です。「自分は沖縄人だ」という意識が若干あります*1。私の仕草やイントネーションや言葉遣いを厳密に吟味すれば、「分かる人には分かる」と思われます。私は沖縄では、驚いた時には、「はっさびよ!」と言ったりします。頭をぶつけた時は「あがっ!」と言ったりします。これは東京ではあまり行わないことです。

東京ではなるべく「沖縄人」らしさを私は出さないようにしています。気がつけばそうしているのですが、どこかで私は、「沖縄人」であることが周囲に強調されすぎると、いつか排除の対象として眼差されてしまうのではないかという「暴力の予感」を感じているのかもしれません。

「沖縄人」には、「日本人」になることを強制されたという記憶があります。私の祖母は沖縄の言葉を使うことを学校で禁止されました。また、戦時中には大勢の「沖縄人」が「日本人」に殺されました。「日本人ではない人間」とみなされたことが大きな要因だったと私は理解しています。

上記のような歴史を私は知っているので、「日本人」に対して少なからず恐怖があります。今まで私は、「日本人ではない」という理由で、差別されたり暴力を振るわれたことはありません。しかし、地震等の大惨事の際に、怯えた「日本人」が、「日本人ではない人間」を過剰に恐怖し、正当防衛という大義名分のもと、「(自称)沖縄人」である私に暴力を振るう可能性があるのではないかと、時折想像することがあります。

あなたの想像は単なる妄想だ。このように述べる人はいるでしょう。

もちろん、妄想であって欲しいと思います。

しかし、12/4に起きた事件は、妄想として嘲笑の的になるかもしれない上記の私の想像を、そのまま現実化するような内容の事件といえます。

黒い彗星さんは「日本人ではない人間」とみなされたからこそ、暴行されたのだと思います。

黒い彗星さんの外見は「日本人」に見えます。持参した横断幕に「自分が日本人ではないこと」を示唆するハングル文字やメッセージを記載していたからこそ、「日本人ではない人間」としてデモ隊に認識され、黒い彗星さんは暴行を受けたのだと思います。

これは、以前に常野さんが、「排外主義断固反対」のメッセージを記した紙を掲げた際に、「日本人ではない人間」として認識されたのと同じ現象だと思います。あのとき確か常野さんは「中国人」として認識されていたと思います。

すなわち、これは、たとえ「日本人」に見えるとしても、「日本人ではない」という印が確認されるやいなや、「日本人ではない人間」と認識され、暴力を受ける可能性があるということです。

ところで我々は、目の前の人間が「日本人であるかどうか」をどのようにして判断しているのでしょうか?

外見、仕草、話し言葉等を吟味し、判断していると考えられますが、では、どのような外見、仕草、話し言葉が、「日本人」として適合なのでしょうか? 北は北海道から南は沖縄まで、外見、仕草、話し言葉にはかなりの差異があります。私の友人に東北出身の人がいますが、私は彼の話す言葉をほとんど理解することができません。もしも、東北の言葉に疎い人間が、この友人の語りを耳にすれば、「日本人ではない」と認識するかもしれません。

何が言いたいかというと、ほんの少しの差異が、「日本人かどうか」を見極める際に乱用され、誰もが「日本人ではない人間」として認識される可能性があるということです。

つまり、今回の事件は多くの「日本人」にとっても、決して他人事ではないということです。

自分が「日本人」であることを、あなたは証明できるでしょうか?

疑いをかけられたら最後、あらゆる差異が「日本人ではない印」として利用され、あなたは「日本人ではない人間」と認識される可能性があります。

たとえ、NH系のアナウンサー並のアナウンスができても、メガネをかけていても、出っ歯でも、ちょんまげを結っていても、「日本人ではない印」は容易に見出されるでしょう。

なぜなら、役所の人間や警察の人間ではない一般人が、目の前の人間が日本人かどうかを識別する確実で明確な方法は、確立されていないからです。その方法はその場の状況によって恣意的に決められてしまうはずだからです。先に言及した米津篤八さんが紹介する「福田村事件」は、このことを裏付けています。この事件では、香川県から行商に来ていた方が、方言のために「朝鮮人」と間違われて殺されたそうです。「朝鮮人だったら殺してもよい」という考え方に第一に恐怖を抱きますが、香川の言葉に無知な「日本人」が、香川県から来た人々を「日本人ではない人間」とみなし、殺したことに恐怖を感じます*2

「日本」や「日本人」に関する知識を欠いた「日本人」こそ、容易に他者を「日本人ではない人間」とみなし、排除する傾向があるといえるのではないでしょうか。

あなたが、目の前の人に対して、「自分は日本人であること」を証明するには、あなたの説明を受けるほうの「日本人」が、「日本」や「日本人」について熟知している必要があります。どのような言葉が「日本」には存在しているのか。「日本」にはどのような地域からどのような経緯で人が移り住んできているのか。そもそも「日本」という国家はどのようにして構築され維持されているのか。これらの問題について無知な「日本人」は、すぐに他者を「日本人ではない人間」とみなすでしょう。とにかく何らかの差異が把握できさえすれば、それは「日本人ではない印」として利用できるからです。

「日本人ではない印」として、ハングルはとても分かりやすい指標です。しかしそのような差異だけでなく、例えば意見の違いという差異も「日本人ではない印」として利用される可能性があります。ある集団におけるある個人が、集団のマジョリティに対して行った反対意見の表明が、「日本人ではない印」として利用される可能性も十分に考えられます。例えば先の大戦では、戦争に反対する人間は「非国民」と周囲から呼ばれました。

いつ何時我々は「(自称)日本人」から「日本人ではない人間」として認識されて排除されてしまうか分かりません。

この世界の人間は「日本人」と「日本人ではない人間」で構成されているとする考え方を放棄しない限り、この恐怖はなくならないと私は思います*3

*1:「自分は沖縄人だ」と強く自覚しているわけではないのですが、時折意識されすぎることがあり、困ります。特に沖縄にいる時に過剰に意識されすぎてかなり疲れます。

*2:福田村事件は、朝鮮人差別だけでなく、ヨソ者に対する漠然とした恐怖や、部落差別や、行商人への職業差別などが複合した結果、発生したという見方もあるようです。http://plaza.rakuten.co.jp/susumeru3/diary/200708040000/ 

*3:この恐怖を打ち消す為に、絶えず「日本人ではない人間」を排除する側に回る人々もいるかもしれません。いじめと同じ構造です。スケープゴートをいじめる側に回れば、自分がスケープゴートになる可能性は低くなります。「日本人ではない人間」を絶えず見出し、これを積極的に排除しようとする人間は、実は最も「日本人であることに自信がない人」もしくは「日本人という集団から排除されたくないと願う人」なのかもしれません。つまり、「日本人ではない人間」を排除する人間は、「日本人ではない人間」を排除することによって、自分達が「日本人」であることを、かろうじて確認し合っているのかもしれません。「日本人ではない人間」を排除しようとする人間は、自分自身が「日本人」であることを、「日本人ではない人間」を排除するという行為以外の仕方で証明することができないことを、理解しているのかもしれません。戸籍謄本や住民票に一切頼らずに、目の前の人間に、自分自身が「日本人」であることを証明することは難しい。それに、戸籍謄本や住民票も偽造しようと思えばいくらでも偽造できるので、これらを目の前の人間に提示しても、自分自身が「日本人」であることを証明することは難しい。「日本人ではない人間」を排除しようとする人間は、実はこのことを熟知しているからこそ、自分が「日本人」であることの唯一の証明方法として、「日本人ではない人間」を排除しようとするのかもしれません。もしもそうであるならば、次のような疑問が浮かびます。なぜそこまでして「日本人」であることを証明したがる人々がいるのか?どうして「日本人かどうか」に拘るのか?彼らをそのような行為に促すものは一体何なのか?