インターステラー視聴後メモ
映画インターステラーを見てきた。面白かった。ある場面で、「ああ!」と数名のお客さんが声をあげていた。それぐらい、引き込まれてしまう映画であった。
時間は資源である。この言葉が印象的な、重力と時間に関する興味深い映画であった。
この映画を見ると、従来の幽霊なるものが、重力と時間と密接に関係した、「科学的*1に説明可能であるが、相変わらず不思議で稀有な存在」として、感じられると思う。
違うか。幽霊を科学的に説明しようとして、愛という怪しげな概念を動員せざるを得なくなり、余計話がややこしくなる、といった方が適切か。しかし、物体が質量を持つようになる仕組みが、ヒッグス粒子なるものを仮定することで物理学者によって当初説明されてきたように、幽霊を説明するために、愛なるものを仮定することも、許されることなのではないかとも思う。
それにしても、ある場所での1時間が、別の場所での1年間に相当する、というような現象は非常に興味深い。時間の流れが遅い場所の価値は、時間の流れが普通である場所があることによって生まれる。「時間の流れが遅い場所」という言い方の存在自体が、「時間の流れが普通である場所」に全てを負っている。後者がなければ前者はない。格差、あるいは差異というものは、価値を生じさせる貴重なものであると改めて思った。宇宙飛行士になって、ブラックホール付近に旅立つことが、将来、究極のアンチエイジング行為として、エリートによって目指されるようになるかもしれない。なにせ、ブラックホールに近付けば、時間の流れが遅くなり、地球で生活していた場合よりも、多くの時間を生きることが、できるようになるらしいのであるから。
以下、その他の感想や疑問点や不明点をランダムに列挙しておく。
分かり易いタイムラインの図。https://www.behance.net/gallery/21179181/Interstellar-Timeline
- プランAやプランBよりも、「砂嵐を止める」や、「地下で食料を生産する」などのプランのほうが、難易度が低く、現実的ではないか。
- 誰がどのようにして、宇宙服姿で宇宙空間を漂っていたクーパーを助けたのか。
- クーパーは、ブラックホールの地平線の向こう側の、時間さえも物理的に操作できる五次元の世界に迷い込むことで、過去に干渉できるようになった。その際に、ブラックホールの実態に関するデータを、時計の針を利用したモールス信号による通信で娘に送った。このデータを利用して娘は、重力と時間に関する謎を解明し、プランAの目標であった宇宙ステーションの完成に寄与した。そして、完成して宇宙を航行していた宇宙ステーションの住人が、宇宙空間で漂っていたクーパーを発見して助けた、ということなのであろうか。地球で宇宙ステーションの制作にいくら時間がかかったとしても、ブラックホール付近では時間の流れが地球と比べて遅く、かつ、過去に生きていた娘にクーパーはデータを送ったこともあり、完成した宇宙ステーションがクーパーを救出するための時間が確保できた、ということなのであろうか。そう考えると、クーパーは、宇宙空間に放り出された自分を、ブラックホールの向こう側に飛び込んで過去に干渉することによって自分で助けた、といえそうだ。
- アメリアは、どのようにして惑星に着陸したのか。本船には惑星着陸用のシャトルは残っていなかったのではないか。
- 何光年も離れているはずの地球からの連絡が、ブラックホール付近にいる宇宙船に届くためには、それなりの年月がかかると考えられるが、地球からの連絡は宇宙船に迅速に届いていたように感じられた。光よりも速度の遅い電波を使用して通信を行っているのならば、宇宙船が地球からのメッセージを受信するのに何十年もかかるのではないか。もしかしたらこの通信には、ワームホールが利用されていたのだろうか。
- 誰がワームホールを作ったのか。仮に、時間を物理的に操作できる未来人が、人類救済のためにワームホールを作っていたのだとしても、納得がいかない。そのような間接的な仕方ではなく、未来人は、人類をより直接的に助けたら良いのではないかと思えてしまうからである。そこまでは未来人は人類に干渉できないということなのか。
- 宇宙空間でハッチを開けて本船と激突したマン博士は、天才ではなく、実は馬鹿なのではないか。「孤独は人を馬鹿にしてしまう」ということなのか。
- そもそもマン博士はどのようにして人類を救うつもりだったのか。単に、地球に帰りたかっただけなのか。
- マン博士演じる俳優はマッド・デイモンであった。宇宙ステーション、格差、人類救済、というキーワードのもとで、マッド・デイモンを眺めると、どうしても映画エリジウムを思い出してしまう。インターステラーの世界は、エリジウムと地続きだったら面白い。完成した宇宙ステーションには、選ばれた人しか居住できず、底辺層の人々は、棄民として、砂嵐舞う荒地と化した地球で暮らし続けていた、というような後日譚を想像してしまう。
- 死に際にブラント博士(男性のほう)が明かした嘘の内容がよく分からなかった。プランAが達成される見込みはない(宇宙ステーションが完成する見込みはなく、かつ、たとえ人間が生活できる惑星が見つかったとしても、地球に住む全ての人々をそこに移住させるすべがない)。にも関わらず、あたかもプランAの実現可能性があるかのように語って、アメリアやクーパーを、宇宙に飛ばしたということが、嘘の内容だったのであろうか。うろ覚え。【答え】ブラント博士やマン博士にとっては、最初からプランB(受精卵を用いた人類の存続)が目的であった。地球に似た星を見つけることができても、地球の住人をそこに運ぶ方法はない。しかし、その星で人類を受精卵を使って存続させることはできる。プランAは、愛する家族が地球にいるクーパーのような人間を、計画に参加させるためのエサにすぎなかったということ。
- 死に際のブランド博士の明かした嘘と関連する話として、「人は恋人や友人のために行動することはできるが、人類という種のために行動することはできない。それが人間の限界だ」というものがあった。この話は、プランBとどのように関係していたのであろうか。もう一回映画を見て確認したい。【答え】愛する家族が地球にいるクーパーのような人間を計画に参加させるために、でっちあげられたプランがプランAである。プランBの達成のみを目論むブラント博士にとって、プランAは、プランB達成のためのおとりにすぎない。プランAをエサにして、プランBの成就のためにクーパーを計画に動員することに成功したブラント博士は、「人は恋人や友人のために行動することはできるが、人類という種のために行動することはできない」という人間の一般的な性質を利用したといえる。
- 愛という言葉で現象の生起メカニズムを説明してもよいものか。
- 恋人亡き惑星で一人、人類を増殖させていたアメリアを、クーパーステーションの住人は、助けに行かなかったのだろうか。クーパーの娘に促されて、クーパーはアメリアの住む星にTARSと共に向かったが、この見せ場のために(つまり映画作成者の都合で)、アメリアは、誰の援助もなく、一人ぼっちでプランBを実行していた、ということなのであろうか。
- クーパーの娘は、アメリアが孤独にプランBを実行していることを知っていたが、地球に住む人類や、クーパーステーションに住む人類は、プランBが実行されている第二の地球に移住するつもりはあったのだろうか。人々がクーパーステーションでの暮らしに満足しており、第二の地球には見向きもしない状態であるならば、孤独にプランBを実行しているアメリアがなんとも不憫でならない。
- クーパーの家の本棚が、特異点になりえた理由が分からない。たまたまなのか。それとも、異なる次元を彷徨うクーパーの、娘に対する愛が可能にしたものが、特異点としての、ポルターガイスト現象だったのであろうか。
- あの五次元の世界の様子は、森見さんの『四畳半神話大系』を彷彿とさせる。部屋として存在している様々な過去に、現在の自分が干渉できる状態が、酷似している。『四畳半神話大系』を、重力と時間と愛が密接に関与した物語として、すなわち、京都のとある下宿に特異点が出現した話として、再解釈することもできそうだ。
- クーパーが彷徨っていた五次元の空間。あの空間を人類が制御できるようになれば、どのようなことが可能になり、かつ、どのような問題が発生するのだろうか。
- 私はいまひとつ、「時間の流れが遅くなる」ということがどういうことなのかを理解できていない。たとえば、二つの時計を用意し、一方を地球に置いておき、もう一方を宇宙船でブラックホール近辺に運ぶとする。地球を出発する際には、同じ時刻を指していた二つの時計に、やがて差異が確認できるようになるということなのだろうか。つまり、地球に置いた時計が2014年8月1日の10:00を指している時に、ブラックホール近辺に運んだ時計は、2014年8月1日の10:00よりもはるか前の時刻(2001年6月3日の8:00というような時刻)を指しているということになるのだろうか。なんか間違っているような気がする。二つの時計は構造が同じであるため、電池の消耗や故障が生じない限り、同じように時を刻む。そのため、このような形の差異は生じないのではないか。むしろ、地球に置いた時計が2014年8月1日の10:00を指している時に、ブラックホール近辺に運んだ時計も2014年8月1日の10:00を指すのではないか。そして、人間や機械に生じる老化や老朽化のスピードが遅くなるということが起きるのではないか。う~ん。いまいち分からない。そもそも、「時間の流れが遅くなる」ことを、何を指標にして我々は把握したらよいのであろうか。時計は、一定のリズムで単に動いているだけであって、「時間の流れ」と呼ばれる対象物を計測しているのではない。「時間の流れ」なるものを測る装置は、そもそも存在するのであろうか。なんだか、この問いは、時間が物理的に操作可能とされる五次元空間に一歩足を突っ込んでしまったからこそ出てきたものに思える。この映画を見るまでは、どんな場所でも時間は等しく平等に同じスピードで流れるものだと漠然と捉えていたのに、映画を見た後では、時間が流れるということ自体に疑問がわいてしまい、時間というものをとても不思議な意味の分からない怪しいものとして感じている。時計で把握可能だと思っていた時間なるものが、時計によって単に紡がれ作られていただけの「仮のもの」のように思えてしまい、どこかに、「時間の流れ」を正確に確実に把握できる別の装置があるかのような気がしている。それは従来の時計のような装置ではなく、スピードガンやオービスのような、場や状況で様々に挙動の変化する「時間」の「速さ」を計測するような装置としてイメージされる。
*1:あくまでも、「五次元の世界」に基づいた科学。