初めての辺野古

2015年6月17日(水)。島ぐるみ会議のバスに乗り、初めて辺野古に行ってきました。

私のホームタウンである西原から、島ぐるみ会議のバスは出ていません。そのため、まずバスで西原から県庁前まで移動する必要があります。貧乏な私は、329号線沿いを歩いて与那原まで行き、そこからバスに乗って、バス代を浮かしました(490円で与那原から県庁前に行けます)。おそらく、朝8時台の那覇行きのバスに、与那原から乗ったのも初めての経験でした。

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与那原から那覇へバスで移動。約40分で那覇に着きます。

「実名が胸の辺りにどーんと大きく縫われた体育着を着た高校生」や「終点近くまで窓にもたれて寝ていて運転手に心配されていた人」や「麦わら帽子を被って車内で立ち通しだった私を旅人だと認識したのか、空いた席を指差して、その空席に私を誘導してくれた親切な人」とバスの中で遭遇しました。バスに乗るだけで様々な人と出会い、様々な刺激を受けます。

県庁前には9:00頃に到着しました。島ぐるみ会議の旗や看板はないかなと思い、県庁前辺りをウロウロしてみたのですが、特に何も見当たりません。仕方なく、県庁前の日陰で座っていると、トルコ料理屋開店のチラシをトルコ人と思しきお兄さんからいただきました。まだ静かですが、平日の朝らしく、街が動き始めていることが感じ取れます。

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9時台の那覇の涼しげな風景。

しばらくすると、初老の女性が私の前へ歩いてきました。正面から私をまじまじと見つめています。「あの、辺野古行きのバスはここから出ているのでしょうか?」と聞くと、「うん!若い人が来てくれると助かる。これ食べなさい。昆布飴。二個あげよう。だあ、このビスケットも。私はね、すぐ食べ物をかめーかめーして人にすすめるから、「かめーおばあ」と呼ばれているんだよ。」と、いっきに巻き込まれました。

巻き込んでくれる人がいると安心です。この方は、週に二回は辺野古にバスで通っているという非常にパワフルな方でした。歳は70~80代後半ぐらいでしょうか。小柄ですが、意志の強さを感じさせる力強い眼をしていました。辺野古での新基地建設に反対する理由を聞かせてくれました。かめーおばあが提供してくれた情報量は非常に多く、全てを理解することはできなかったのですが、「日米両政府および自民党が沖縄に強いる理不尽」に憤りを感じていることは理解できました。米国の民間人居住地で禁止されているオスプレイの飛行訓練が、沖縄の民間人居住地では可能とされていること。県外移設を公約に掲げていた仲井眞元県知事の裏切りが、法治国家の日本で放置されていること。島尻あいこは島売りあいこであること。安倍はアベコベであること。ユーモアと怒りが織り交ざった独特のスタイルで、かめーおばあは話し続けました。

そうこうしているうちに、人が集まり始めました。正確な数は分からないのですが、高齢の女性が多いという印象を受けました。気が付くと、島ぐるみ会議の青い旗を持った女性がそばに立っておりました。「若い人が持った方がいいから、あんたこれ持ちなさい」とその人に言われ、旗を持って立つ私。店の人に急に店番を頼まれた客のような状態です。「島ぐるみ会議の方ですか?」と周囲の人に聞かれ、「いいえ。一般市民です」と返事するやりとりが数回。旗を持って立つ私をなぜかデジカメで撮っていく人もちらほら。内も外もないこの雑多な感じがいいです。かめーおばあは、かめーおばあで、私を様々な人に「この人、初めて辺野古に行くってよ」とばかりに紹介してくれます。新参者を有無を言わさず絡め取って下さることで、新参者は孤立することなく、安心して辺野古まで移動していくことができそうです。

全体の統括を行っている方から名札を手渡されました。一番乗りだったので番号は1番。全体の統括を行っている方によると、だいたい1日につき平均して30人前後の人が島ぐるみ会議のバスを利用しているのだそうです。「1日につき50人ぐらい来て欲しい」と総括の方は言っておりました。バスは一台。青い大型バス。9:50頃に、それが県庁前に到着しました。いよいよ出発です。旗を担ぎながら、私がバスに乗ろうとすると、常連と思しき筋肉質の方から「旗は10時まで県庁前で持って立っていて」と言われました。はいと返事をし、元いた場所に戻り、しばらく立っていると、先程の筋肉マンが走ってきて、旗持ちを代わってくれました。見ると、バスの近くでかめーおばあが、おいでおいでをしています。なんだろうと思い、はいと返事して行ってみると、「私がね、「あの人は初めて参加する人よ!バスに乗せてあげなさい!なんで初めて参加する人に旗を持たせているわけ!」って言ったわけ。さ、バスに乗って。」とおばあ。気遣いに感謝しつつ、私はバスに乗りました。

バスの中では、統括の方から今後のスケジュールの説明があり、その後は初参加者の人々による自己紹介が行われました。マイクが回ってくるので、簡単に自己に関する情報を開示します。「西原から来ました。与那原で塾講師をしています。辺野古に行くのは初めてです。私は、食べ物の宝庫である辺野古の海が破壊されることに我慢がならないので、辺野古での基地建設に反対です。また、自民党の人々による「辺野古の基地建設は、普天間基地という危険性の除去に必要」という主張は、危険性のたらい回しを正当化する屁理屈でしかないと考えています。なぜなら、辺野古の海に基地が建設されれば、辺野古の豊かな海が破壊されるという危険性に加えて、米軍絡みの事故や米兵による犯罪などの事件の多発という危険性が辺野古で増えることが予想されるからです。普天間基地は無条件返還されるべきであり、辺野古へのこれ以上の危険性の付与とセットにすべきではないです。自民党の人々は、普天間基地という危険性の除去という言葉を多用しますが、辺野古への危険性の追加には全く言及しません。自民党の人々は非常に汚いと思います。以上のことから、私は辺野古での基地建設には反対です。どうぞ宜しくお願い致します。」と話し、マイクを次の人に回しました。

私を含めて、かねひでグループの社員さんや、本土から来た某テレビ局の人や、長野やカナダから来た人などがこの日の初参加者でした。自己紹介のたびに、暖かい拍手が起きます。途中、歌が披露されたり、沖縄市のサッカー場のドラム缶に関する説明がなされたり、辺野古安倍政権に対する思いが参加者から自発的に語られたりと、様々な情報が飛び交ったので、時の経過が短く感じられました。感覚的にはあっという間に、辺野古に着きます。辺野古の「瀬嵩の浜」が最初に訪れた場所でした。カヌー隊の人々の激励をここで行うために、全員いったんバスを降ります。以下は、「瀬嵩の浜」付近の写真です。綺麗です。食べ物(生き物)の気配を感じます。

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これらの黒いゴムボートは、例の海上保安庁のものだそうです。

「瀬嵩の浜」では、カヌー隊からの状況報告と、おおた弁護士による激励が行われました。そのすぐ横で、本土から来た某テレビ局の方が、カメラを回しておりました。この方も本日の初参加者です。バスの中で「辺野古の番組を作りたい」と自己紹介していた方なのですが、辺野古での出来事をどのように切り取って編集するつもりなのか非常に気になります。期待と不安の両方を感じます。

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辺野古の現状がどのような形で報道されるのか気になります。

次に、「瀬嵩の浜」から、「米軍キャンプシュワブゲート前」にバスで移動します。ここが、現在世界中から注目を集めている抗議活動の現場です。弁当タイムということだったので、高速のサービスエリアで買ったおにぎりを食べ、その後しばし「ゲート前」をウロウロしてみました。

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ゲートの向かいの道路脇にテントが並んでおりました。

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一番奥のテントは寝泊りができるようになっており、その側面には報道記事が集約されておりました。

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運動の最前線にいた山城さんに関する記事。

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最近、警察の中隊長が、市民にひさげりを行ったそうです。許せません。

日差しの強い日でした。ゲート前には警官と思しき人々がちらほら立っています。「あの近辺を一人でふらふら歩こうものなら、拘束されたりするのだろうか」と恐る恐る遠くから眺めていると、一人の女性が歩いていました。かめーおばあでした。一人で堂々と、ゲート前を歩いています。「おばあ、そんなとこ一人で歩いて大丈夫なのか」と私は心配になりました。

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一人で堂々とゲート前を歩くかめーおばあ。

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ゲート前を、端から端へ移動していくかめーおばあ。

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本当に堂々としています。

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フェンスにバッテンを記す作業をおもむろに始めたかめーおばあ。某テレビ局の人がすかさずインタビュー。

かめーおばあは、バスの中でも、安倍政権や日米政府に対する怒りを真っ直ぐに表明しておりました。また、怒りだけではなく、辺野古に通ううちに米兵にも警官にも友人ができた、とも述べていました。「ゲート前」を堂々と移動するおばあは、その場に立っていた警官にも声を掛け、何か話していました。怒っている様子はありません。おばあは、警官をこちらに巻き込んでいるように見えました。言葉で説明して彼らの共感を得ようとしている。このように思われました。「おばあ、すげえな」と私はただただ感心しました。

その後、13:30頃に、「浜のテント」と呼ばれる場所にバスで移動しました。ここは、辺野古での基地反対運動のはじまりとなった場所です。海を広大に埋め立てて行われるはずだった基地建設計画を、文字通り体を張った抵抗運動により、頓挫させた現場です。この場所に立っていたテントで、運動の経緯と最新情報を聞くことができました。「長崎にいる米軍の揚陸艦が、辺野古の新基地に移動できるように工事が進められており、この機能は普天間基地には存在しない機能であることから、辺野古の新基地は普天間基地の代替施設とは絶対にいえないものであること。また、上記の理由から、辺野古での基地建設は、既存の基地を拡張する工事ではなく、新基地建設としか呼べないものであること。」や「新しく建設される予定の基地の長さは、那覇国際通りほどの長さ(約1マイル=約1.6キロメートル)であり、広大であること」や「調査によると、この付近のジュゴンの数は3匹ほどであること」などの、新しい情報を得ることができました。

これらの説明は、テント内に貼られた新聞記事に基づいて行われました。目の前に情報のソースが明示されていることから、非常に説得力があります。「新聞記事の内容に誤りがある」という反論が成り立つかもしれませんが、それならそれで今度は、新聞記事の内容のどの箇所に誤りがあるのか、また、そのように主張できる根拠は何かという点を論点にして、建設的な議論が行えそうです。どのような主張を行っても基本的にはOKだが、根拠・証拠を示すことが重要であり、また、これらの根拠・証拠が確かに根拠・証拠といえるのかどうかを常に検証することも重要です。この検証の精神が、報道記事が至るところに貼られたテントの、そこかしこから感じられました。

ところで、よくネット上で、「辺野古に来ている市民は、お金をもらっている」という情報が流れているのですが、今回私は、そのようなお金をもらえる場所を、見つけることができませんでした。バス代を浮かして辺野古に来ている身としては、お金は是非ともいただきたいものなのですが、非常に残念です。

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「浜のテント」前の砂地。食べ物(生き物)の気配がします。

「浜のテント」から「ゲート前」に戻ると、テント前で余興が行われていました。誰でも自由に参加できるシステムのようです。ちょうど男性の方が歌を歌っていました。かなりノリノリで楽しそうです。

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何かがビシッとキマッった模様。

途中、トイレに行きたくなったので、トイレに連れて行ってもらいました。随時、トイレに行きたい人のために、「ゲート前」から車が出ていきます。「あのう。トイレに行きたいのですが」と、「トイレ送迎」と書かれた段ボール看板のそばにいた人に伝えると、「トイレに行きたい人はいますかー」と他の参加者にも声を掛けてくれました。誰がどのようにこの場に関わっているのかが私にはまだ分からないのですが、島ぐるみ会議の人がスタッフとして動いているというよりも、居合わせた市民が率先して動いているという印象を持ちました。

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車で連れて行ってもらえたトイレの隣に、畑の跡がありました。

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畑には大きなミントが。食べ物です。ここまで成長しているミントを初めて見ました。

トイレから帰ると、抗議活動が始まっていました。完全に出遅れました。プラカードが納められた段ボール箱が、寝泊りテントのそばにあったので、そこからプラカードを選び、それを持って抗議活動に合流します。

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「新基地建設反対」のシュプレヒコール

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市民にひざげりを行った中隊長に対し、釈明を求めます。

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デジタルビデオカメラで一部始終を記録している市民の方。心強いです。

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基地内に停められていた護送車っぽいバスから、警官が次々と飛び出してきました。

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大勢の警官達が列を成して小走りで「ゲート前」に向かってきます。

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山城さんという現場のリーダー的存在がいないことを心配していた私ですが、別のリーダー的な存在がおりました。名前は分からないのですが、向かってくる警官隊にひるまず、市民にひざげりをした中隊長への釈明を求めていきます。

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「ゲート前」に警官隊が集結。どうやら白い棒を持っている人が指揮官のようです。

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市民を圧迫するようにずんずん歩いてくる警官達。

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警官隊が二手に分かれました。左右の市民をそれぞれ取り囲み、「ゲート前」の外側に押し出そうとしてきます。

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警官が「危ないです」と言いながら無理矢理押してくるので、危ないです。「やめろ!」という怒号が飛び交います。

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「押したら危ないでしょ!なんで押すの!」と市民が抗議します。

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なんかどこかで見たことのあるおじいがいました。標的の村という映画で見たような。

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高齢の方々が体を張って警官とぶつかっています。

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「押さないで下さい!」という怒りの声と、警官による「危ないです危ないです」という冷やかな声。

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警官の背負っているリュックからコードが出ています。中身が気になります。

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警察側の記録係。

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途中で何かごそごそしていました。ボタンを押しているように見えます。何のボタンなのでしょう。

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10分ぐらい経つと、サーッと警官達が基地内に戻っていきました。

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この人の指示のようです。

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周囲の人の話では、この人は小隊長ということでした。市民にひざげりをした中隊長はどこにいるのでしょう。

抗議活動は、警官隊が去っていった後に終了となりました。高齢者の方々が警官と正面からぶつかっておりました。「警官が押してきたので、こちらも押し返したら、警官は後ろに素早く飛びのく。あれはわざとだ。こちらの力を利用して怪我をさせようとしている。危ないのでやめて欲しい。」と話す市民がおりました。これは事実だと私は思います。実際、私の目の前で、前方に転んだ市民の方がいました。警官は強弱をつけながら市民を押してきます。危ないです。なぜ市民を守るはずの警官が、このような危険なことをするのでしょう。彼らは、きっとどこかでお金をもらっているに違いありません。お金をもらいたいから、このようなことをしているのでしょう。

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誰かがギターで美しい曲を奏でていました。曲名は分からないですが、抗議活動で疲れた心に沁みました。

私は警官と直接揉みあうことを避けて、後ろの方でプラカードを掲げて立っていました。動き方が分からないのです。果敢に警官にタックルをかましたらいいのか。それとも、座り込んだほうがいいのか。どう動いたらいいのかが分かりません。そもそも、怪我をしたくないので、また、逮捕もされたくないので、警官と接したくないという思いが強くありました。警官が私に触れることを躊躇するように、犬の糞を体中にまとって、抗議活動をしたらいいのかもと考えたりしていました。

高齢者の方々が警官と正面からぶつかっていく姿が、最もインパクトがありました。かめーおばあもぶつかっていました。警官達はその多くが無表情です。危ないです危ないですと言いながら、危ないことをしてきます。「それが彼らの仕事だから」という言い方で警官によるこのような市民への暴力が正当化ないし許容されることがあります。

仕事だから仕方ない。確かにこのような主張には、一定の説得力があると思います。そもそも、警官の多くは、裕福な生まれではないでしょう。なかには金持ちのボンボンもいるかもしれませんが、いたとしても少数でしょう。ここには教育の格差と雇用・労働問題が存在しています。生活するために警官になった人々は、上司の命令に従わざるをえない。これは事実であり、上司の命令に背くことは難しいことでしょう。

しかし、仕事だったら何やってもいいわけではないだろ、と私は思います。生活、すなわちお金のためなら何でもするというのは、あまりにも自己中心的です。もしも上司の命令に抵抗して、警官をクビになり、次の仕事が見つからず、生活できなくなれば、生活保護を申請したらいいのにと私は思うのですが、どうでしょう。市民に理不尽な暴力を振るって生活するよりも、断然マシではないでしょうか。「それは絶対に嫌だ。お金もらって市民に暴力を振るっていたほうがマシだ。」と警官の方々の多くが考えるのであれば、もしかしたらここには、「どのような理由であれ生活保護を利用することは恥ずかしいことだ」という生活保護に対する偏見の問題が絡んでいるのかもしれません。

あるいは、多くの警官は、命令に背きたいなどとは全く考えず、「仕事とはこういうものだ」や「暴力を合法的に振るうことが許されるこの仕事が好き」と考えて、自らすすんで市民に暴力を振るっている可能性もあります。特に、海上保安庁職員による市民への仕打ちを見ていると、このように思えてしまいます。何なのでしょう。あの人達は。法的根拠がないにも関わらず、人を拘束したり、首を絞めたり、溺れさせようとしたり、オールを奪ったりと、理不尽で暴力的なことばかりしています。

このような、お金をもらって、ひたすら体を鍛え、柔道や剣道などの武術をたしなみ、市民に暴力を行使してくる警官や海上保安庁職員に、市民が立ち向かうことは明らかに無謀です。それゆえ、やはり、今回の辺野古訪問で、最も印象に残ったのは、このような不利をものともせず、警官に正面からぶつかっていく高齢者達の姿でした。怒りの表情で、正面から、相撲のように、警官にぶつかる。これを60代~90代の年配の方々が率先して行っていくのです。警官に対して全然ひるまない。おそらく、彼らの多くは「ここで死んでも構わない」と考えているのだと思います。上品で、穏やかで、優しく、紳士的な年配の方々が、警官に対して、鬼の形相で抵抗していく姿は、インパクトがありました。

帰りのバスの中で、私は感想を述べました。以下のような内容の感想を述べました。

「警官と対峙するのは怖かったです。しかし、他の参加者の方々は果敢に警官にぶつかっていったので、驚きました。明らかにこちらが体力的にも地位的にも不利なのに、どうしてそんなことができるのだろうと思いました。」

これと似たような感想は、今日初めて抗議活動に参加した他の方々からも聞かれました。年配の方々による警官との直接対決に度肝を抜かれ、「自分には皆さんのように警官と対峙することは無理ですが、くれぐれもお体に気を付けて頑張って下さい」と述べる方々が複数名おりました。

高齢者の方々にとっては、辺野古の新基地建設は、子どもや孫のためにも、命に代えてでも阻止しなければならない工事であり、だからこそ彼等は警官にぶつかっていけるのでしょう。しかし、それだけではなさそうです。抗議活動に参加していた高齢者の方々は、一人一人が「個」として強いように感じられました。見た目は細く、振る舞いも上品で優しそうですが、精神がとてつもなく頑丈。金属にたとえたら、ダイヤ。他者の反対意見に全く臆せず、自分の意見を「こども」のように遠慮なく言う。このような特徴を持つ方々が多かったように思います。

たとえば、帰りのバスの中で、次のようなやりとりがありました。「慰霊の日には安倍が来沖する。空港で待ち伏せして皆で抗議しよう。なぜこのような動きが沖縄では起きないのか。我々はどこか抜けているのではないか。」という意見が、高齢の参加者から出されました。これに対して、かめーおばあは、「私はそれには反対。慰霊の日平和の礎に行きたい。」と反論しました。また、「そんな言い方はないでしょう。」と、声をあげて憤慨する方もおり、皆が対等に正面から議論をし始めました。この場には、誰かの顔色を伺って、発言を控えるというような、ぬるま湯のような澱んだ空気は一切ありませんでした。誰かの気分を害さないように、批判を控える。そのような、「空気を読む」態度が、全く感じられませんでした*1

基本的に、抗議活動に参加されている高齢者の方々は、自分がおかしいと思うことに対して素直におかしいと言える人々であり、それは警官に対してのみではなく、いわゆる「仲間」に対してもそうでした。島ぐるみ会議のバスの中は、対等に、歯に衣着せず、自分の意見を述べ合えるような、風通しの良い場でした。一部の会社や、一部の大学などで頻繁に観察できる、上司や目上に対しては「空気を読んで、批判を控える」という処世術が、ここでは全く駆使されていませんでした。おそらく、このようなコミュニケーションスタイルは、警察や海上保安庁や米軍には絶対に存在しないものでしょう。

このような、島ぐるみ会議のバスの中で私が思い出したのが、かつての大学院での研究生活でした。相手が教授であろうと何であろうと、皆、対等に議論していました。バスの中で、あの頃の研究生活が、懐かしく思い出されました。人と正面から対立し、議論をすることは、時折精神的な苦痛を感じさせるものであったけれども、誰の顔色も伺わず、自分の意見を言い合えるという意味では、非常に風通しの良い場に、自分はいたのだなと、あの頃の研究生活の良さを再確認しました。この、風通しの良い対等な空間が具備されていること。これが、島ぐるみ会議のバスが「辺野古総合大学分校」と呼ばれる所以の一つだと私は思います。個と個が対等に正面からぶつかり合うことができ、異議申し立てが自由に行える場こそ、大学と呼ぶにふさわしいでしょう。時間に余裕があれば、というよりも、時間を作って、島ぐるみ会議のバスで、また辺野古に行こう。現時点での私はこのように考えています。

バスが県庁前に到着した後、解散となったのですが、かめーおばあと帰り道が途中まで一緒だったので、色々とお話を聞くことができました。「警官が怖い」とか「怪我したくない」といったレベルの話はおばあにはどうでも良くて、戦争に行った自分の親族の遺骨がどこにあるのか分からない現状に対しておばあは怒りを表明し、慰霊の日には平和の礎で彼らの供養をするということを淡々と私に話しました。私のように、単に、「食べ物の宝庫を壊すことになるので、辺野古での新基地建設に反対」しているのではなく、おばあは、それこそ、いくつもの怒りの文脈の中に、今回の辺野古での新基地建設を位置付けて、これに反対していることがひしひしと伝わってきました。沖縄戦、その後の日本政府による戦死者の扱い、復帰後も続く沖縄での米軍絡みの事件や事故、オスプレイの沖縄への差別的な配備などなど。私が依拠する文脈よりも、はるかに多くの文脈の中で、おばあは新基地建設を捉えている。国際通りを歩きながら、ずーっとおばあは私の横で、喋り続けていたのですが、行く先が異なることが分かると、「私はこっちだから」と言って、道路を横断していきました。急いで「さようなら」と言った後、しばらく歩いて振り向くと、おばあが曲がり角で手を振っているのが見えたので、私も手を振り返しました。こんな感じで、初めての辺野古行きを私は終えたのでした。

*1:詳細に調べたわけではないので、言いたいことが言えない人が実はいた可能性は、もちろんゼロではないのですが。