照屋勇賢氏の作品に触れて
ジャーナリストの高嶺氏による下記の記事を読む機会があり、私の中で言葉が横溢してきたため、それらをここに記しておくことにする。
戦闘機やオスプレイやパラシュート降下中の兵士という図案
照屋勇賢氏による紅型作品「結い、You-I」。この作品では、ジュゴンやアカバナなどの沖縄を彷彿とさせる存在に加えて、戦闘機やオスプレイやパラシュート降下中の兵士が描かれている。
戦闘機やオスプレイやパラシュート降下中の兵士は、ジュゴンやアカバナなどと共に、紅型特有の鮮やかな色彩に織り込まれている。そのため、この作品からは、次のようなメッセージが受け取れるかもしれない。
沖縄は、持ち前の優しさやホスピタリティを以って、戦闘機やオスプレイやパラシュート降下中の兵士をも、包摂している。
しかし私は、照屋氏の上記作品を別様に捉えている。私は照屋氏の作品を鑑賞し、次のようなことを考えた。
照屋氏は沖縄の紅型という伝統的な素材を「沖縄における憂慮すべき問題」を示すためのメディアとして用いている。ジャーナリストの高嶺氏とのインタビューにおいて彼が述べているように、照屋氏は、米国人を彼の作品の鑑賞者として想定している。作品を通して照屋氏は主に米国人に向けて、「沖縄」と「沖縄における憂慮すべき問題」を同時発信しているのである。
紅型で表現されているもの
誤解を避けるために、前段において私が述べた「「沖縄」と「沖縄における憂慮すべき問題」」というフレーズにおける「沖縄における憂慮すべき問題」について、補足をさせていただきたい。ここでの「沖縄における憂慮すべき問題」とは、前段で言及した紅型作品「結い、You-I」で描かれていた「戦闘機やオスプレイやパラシュート降下中の兵士」を指している。ジュゴンやアカバナが「沖縄における憂慮すべき問題」なのではない。
照屋氏による紅型作品には、瀬長亀次郎氏を描いたものも存在しているが、この場合、瀬長亀次郎氏が「沖縄における憂慮すべき問題」なのではない。照屋氏は、瀬長亀次郎氏を紅型作品で描くことにより、「理不尽な米軍統治に抵抗せざるを得なかった瀬長亀次郎という政治家を生んだ沖縄」という情報を、作品の鑑賞者である米国人に向けて発信しているのである。
情報の媒体、すなわち、メディアとしての紅型は、瀬長亀次郎氏という不屈の政治家を、あくまで沖縄という文脈で眺めることを鑑賞者に要求する。照屋氏の作品を鑑賞する米国人は、まず紅型特有の色彩に惹かれ、「沖縄」と出会う。そしてその紅型によって示される「瀬長亀次郎」という図案に対して「なぜこの人物がここに描かれているのか?」という疑問を持つ。この疑問が生じた時、「沖縄」と「沖縄における憂慮すべき問題」の共有が開始されるのである。
米国人にとっては、オバマ大統領を描いた上記の紅型作品のほうが、先の瀬長亀次郎氏を描いた作品よりも、理解しやすいであろう。
この作品では、紅型で米国のオバマ大統領が描かれている。この作品を鑑賞した米国人は、沖縄の伝統技術である紅型を用いた作品で、米国のオバマ大統領がわざわざ描かれる理由を考えざるを得ない。沖縄とオバマ大統領との関係、沖縄と米国の関係、沖縄と米国人である自分との結び付き、あなたとわたしの結び付き、つまり、YouとIの結いについて彼等は考えざるを得ない。
これが、照屋氏の紅型作品に「結い、You-I」という名前が付けられている所以ではないだろうか。「結い、You-I」というタイトルは、「結び付き」を意味しており、さらにこれは「沖縄(=You)」と、この作品を鑑賞する米国人である自分自身(=I)をも意味しているのである。
あるいは、照屋氏の側から見れば、ここでのIとは、「沖縄(=I)」であり、この作品を鑑賞する米国人がYouであるかのかもしれない。いずれにせよ、「結び付き」と「あなたとわたし」という2つの意味が、「結い、You-I」という作品名には込められているのではないだろうか。
宙に浮くパトカー
「沖縄」と「沖縄における憂慮すべき問題」を、鑑賞者である米国人に意識させる照屋氏の作品は、紅型作品に限られない。
一連の紅型作品以上に、米国人を、「なぜこのような図案がわざわざ描かれているのか?」という疑問にいざなう作品は、おそらくこれであろう。
琉球漆器の台の上で宙に浮くパトカー。この作品を鑑賞した米国人は、「なんだこれは。なぜ車がひっくり返って空中に浮いているのだ」という疑問を持つに違いない。
この作品は、かつて沖縄のコザ(現沖縄市)において、米国・米軍による沖縄に対する人権侵害的な仕打ちに怒りを爆発させた沖縄の人々によって今まさに車がひっくり返された瞬間を、まるで時を止めたかのような臨場感溢れる形で、切り取ったものである。
「なぜここまでしたのか?」「どうしてこのようなことが起きたのか?」 琉球漆器という「沖縄」を意味するメディアの美しさに惹かれつつ、この作品を観た米国人は、このような疑問を抱くであろう。そして、「沖縄」と「沖縄における憂慮すべき問題」が、共有されはじめるのであろう。
政治的なアーティストについて
アーティストは、政治的な問題に関与するべきではない。時折、このような主張を耳にすることがある。
果たしてこのような主張は正しいものといえるのだろうか?そもそも、政治とそれ以外を綺麗に切り離し、政治以外の事象だけを、人は語ることはできるのだろうか? とりわけ、沖縄という場所で。
沖縄での日常生活を語る時、空を見れば戦闘機やオスプレイ、一般道路には米軍車両という現実がある。地域によっては、パラシュート降下中の兵士や、実弾演習による山火事なども日常生活に含まれてくる。沖縄では、所謂「政治的なもの」が、生活の場に確実に入り込んでいる。したがって、沖縄において生活を語ることは、政治を語ることと同義となる。好きでそうしているのではない。嫌でもそうなるのである。
ジャーナリストの高嶺氏とのインタビューにおいて、照屋氏は、ごく当然のように辺野古新基地建設への反対を表明する。そして、何ら憚ることなく、沖縄の米軍基地問題というテーマの伝達に適したツールとして、美術に言及する。
この自然さはおそらく、照屋氏の沖縄での生活感に由来しているのではないだろうか。単純に、ほとんどの沖縄県民にとって米軍基地は、迷惑な存在なのである。紅型や琉球漆器という沖縄独特の素材を、情報を載せるメディアとして巧みに選択した照屋氏は、このような沖縄での生活感を、作品を通して素朴に語っているのではないだろうか*1。
このような照屋氏のようなアーティストにとって、「アーティストは、政治的な問題に関与するべきではない。」という主張はどのように響くのであろう。話題を、政治とそうではないものに乱暴に区別し、政治について語るわたしの口を封じることによって、もしかしたらあなたは何らかの利益を得ているのではないですか。関係性に敏感なアーティストならば、即座にこのような分析が可能かもしれない。
そして、アーティストは、あなたとわたしは果たしてどのような関係にあるのだろう、と問い掛けてくるかもしれない。もしかしたら、「アーティストは、政治的な問題に関与するべきではない。」という主張自体が、特定の誰かの口を塞ぎ、特定の立場にいる誰かを利するという意味で、まさに政治的な主張なのではないですかと、問い掛けてくるかもしれない。
そうして、どこまでも、美術という有用な道具の力も借りてアーティストは、あなたをからめとり、やがて否応なく「沖縄」と「沖縄における憂慮すべき問題」の共有が、始まってしまうのかもしれない。
上記は、私が勝手に妄想した「政治的なアーティスト」による「アーティストは、政治的な問題に関与するべきではない。」という主張へのリプライである。照屋氏が上記の主張に対してどのような応答をするのかについては、実際のところは分からない。
しかし以上が、照屋勇賢氏の作品に触れて、私が考えたことである。
*1:もう一人、「政治的(=生活的)」なことを堂々と直截的に表明するアーティストを思い出した。その方の作品についても私は以前に文章を書いたことがある。下記がそれである。
http://z99.hatenablog.com/entry/20100613/1276444938
上記の作品としてのパフォーマンスが行われたのは、普天間基地の県外移設発言を当時の首相である鳩山氏が撤回した頃であった。その当時、この撤回発言に対する抗議の意を示すために沖縄の人々によって採用された色が、確か黄色であった。このアーティストと私の最初の出会いについては下記を参照のこと。