くにたち野道
ひさしぶりに、研究室に行き、院の仲間たちと酒を飲んだ。一松で鍋を楽しみ、徹夜でカラオケをして、研究室でUNOをし、最後は寝袋にくるまって寝た。
人類学関係者のあいだで、『ラディカル・オーラル・ヒストリー』という本が最近話題になっていることを知った。保苅実という人が書いた、オーストラリア先住民に関する本だという。「シゲの関心と合っているから読んでみたらいいよ」とハマーに勧められたので、さっそくアマゾンに注文した。
ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践
- 作者: 保苅実
- 出版社/メーカー: 御茶の水書房
- 発売日: 2004/09
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 37回
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保苅実氏とその著書 『ラディカル・オーラル・ヒストリー』についていろいろ調べてみたら、次のようなサイトを見つけることが出来た。
http://www.hokariminoru.org/j/index-j.html
なかでも、保苅さんによる次のエッセイは印象的だ。
http://www.hokariminoru.org/j/nippo-j/nippo_15-j.html
「自由で危険な広がりのなかで、一心不乱に遊びぬく術を学んでゆこう。 」という、保苅さんの提言に、私は強く同意する。
投稿者 shige : 2005年01月22日 15:07
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コメント
保苅さんの『ラディカル・オーラル・ヒストリー』の第一章だけ、ざっと目を通した。私の関心ともろに合っている。私の血を湧かせる記述を、下記に抜粋する。
「歴史家としてのアボリジニの人々の物語りっていうのは、荒唐無稽な話が次から次へと出てきて、研究者としてはどうにもならない状態に陥っちゃうんですよね。ちょっとだけ、具体例をあげましょうか。最初に、歴史を語るとかいう前に、まずは大地の声を聴けないといけない。大地があなたにいろんなことを教えてくれるわけです。そんなこと言われたって、僕には聞こえないわけですよ。でもかれらは大地の声を聴くわけですよね。その大地の声に従って、例えば、「あそこで白人が死んだのは、法を犯したあの白人に大地が懲罰を与えたからだ」と語りますよね。そのときに、僕らはどのようにしてこのアボリジニの人が語ってくれた歴史物語を聞くのでしょうか? ここで、「あぁ、アボリジニの世界観では、牧場で白人が死んだあの事件をそんなふうに理解するんだー。」というような聞き方ではなくて、かれらの話を歴史家の言葉として、つまりたとえば、大塚久雄やE・H・カーの歴史研究と同様に、歴史家による歴史分析として受けとることはできるでしょうか。そういうふうに聴くように心がけてみるんです。
すると、どうなるか? 必然的に「大地(の声)」を、歴史のエージェントとして受け入れないといけなくなりますね。人類学、あるいは歴史人類学の世界では、こうした超自然的な語りや記述をなんらかのメタファーとして分析してきたように思いますが、どうでしょう。比喩表現をめぐる諸理論はここ数十年のあいだにずいぶん発展して、最近では「すべてはメタファーである」みたいな主張もとりたてて突飛ではなくなりました。とはいえ、僕が本書で展開したいのは、ある意味ではこうした比喩論の裏側(正反対ではなく!)です。つまり、誤解を怖れずに言えば、「メタファーなどない(とすればどうか?)」というのが、僕の主張、兼、問題提起です。アボリジニの人々が、大地が白人に懲罰を与えたのだという歴史分析をおこなったとき、ここでいう「大地」が牧場で白人が死んだという歴史的事件を説明するための何かのメタファーなのではなく、史的事実としての歴史のエージェントだったらどうか。もっとはっきり言ってしまえば、本当に大地が白人に懲罰を与えたんだとすればどうか。歴史学者である僕が、そんな歴史叙述をすることは可能なのか。──人間以外の存在者たちは、歴史のエージェントになれるのでしょうか?」(保苅 2004:12-14)
第一章から、非常にラディカルだ。すげえ。
しかし、保苅さんによるメタファーという言葉の使い方・捉え方に、私は違和感を覚えた。我々の経験、そして、世界に対する想定は、すべて言葉によって形作られる。このような意味において、言葉に注意を促す際に、メタファーという言葉は研究者によって使用されることが多いように私は思う。しかし保苅さんはこのような意味においてメタファーという言葉を使っているのではない。何かを代理する言葉という意味で、メタファーという言葉を保苅さんは使用している。
また、次のような疑問もわいた。「すべてはメタファーである」と主張したのは、ニーチェではなかっただろうか? 最近の傾向ではないような気がする。
(↑ 読み間違え。「最近では「すべてはメタファーである」みたいな主張もとりたてて突飛ではなくなりました。」ということは、「「すべてはメタファーである」という主張が最近なされている」ということと異なる。もっとちゃんと読め) 追記 2005/02/06 21:45
などと、細かいことはどうでもいい。
刺激的な文章をさらに抜き書きしていく。
「たとえば、グリンジの長老が歴史学会や人類学会に招待されて、「大地が白人に懲罰を与えた。」といった話をしますよね。すると、おそらくみんな拍手喝さいしてこの主張を「受け入れる」んじゃないでしょうか。アボリジニの人が、アボリジニの文化圏(発話位置)から大地の声の話をしても、誰もちっとも困らないんですよ。なぜなら、いまどきの学者さんたちは、みんな文化相対主義とか異文化尊重とかをちゃんと実践できるからです。じゃあ、日本学術振興会特別研究員という資格で研究報告する発話位置を与えられているこの僕が、学会発表の場で、「牧場でこの白人が死んだのは、大地が彼に懲罰を与えたからです。」と主張したらどうでしょう。みなさん、かなり困るんじゃないでしょうか。僕の頭がおかしいんじゃないかと疑われても仕方ないですかね。「それは、アボリジニの信念・信仰であって、まさかあんたも信じているわけじゃないでしょうね?」と言われるかもしれません。せいぜいで「それはかれらの真実であっても、われわれの真実にはなりえない」でしょうか。僕としては、どうせなら「君はアボリジニの信念体系まで領有しようとしているのか!」くらい言ってほしいと思いますが。」(ibid :14)
まったくおっしゃる通りだと思う。学会で「大地」の話をしても、まともにとりあってはくれないだろう。
いわゆる「現地」や「調査地」の人々が語る「オカルトチックな話」には、すすんで耳を傾け、共感と同意を示すくせに、同じ「日本人」や「学生」による「オカルトチックな話」に対しては、「そんなでたらめなこと言うのはやめろ。お前非合理的だな」と反応する人類学者がいる。あるいは、このような「同胞」に出会ったときに、妙に無口になる研究者たちがいる(私がそうなのだけれど 涙)。このことが前から私も気になっていた。
◆
「大蛇が洪水で牧場を流したっていう歴史がありますよね。通常の、と言うべきかどうか分かりませんが、素朴実証史学のなかでは、こんな歴史は、まあ排除されるわけです。なんで排除されるかっていうと、これは事実じゃないからですね。本当はここで、「事実とは何か」っていう問いをちゃんと考えなきゃいけないんでしょうが、それだけで話が先に進めなくなると嫌なので、とりあえず、こう言っておきます──史実性という呪縛から完全に解放された歴史学の方法をまじめに模索する必要があるかもしれない.....。」(ibid 22)
「事実とは何か」という問いに取り組んで欲しいのに、スルーしちゃった。残念。
「歴史学者たちが史実性の呪縛から解放されない限り、ケネディ大統領がグリンジの村に来たっていう歴史は、歴史学者によって排除され続けるでしょう。これに対して、「僕たちは排除しないよ」っていうグループがいくつかあります。典型的には、記憶論をやっている人たちです。あるいは、人類学が中心ですけれども、神話論というのも昔からあります。記憶論や神話論をやっている研究者たちは、たしかに排除しないんですけれど、そのかわり包摂しちゃうんですね。別の言い方をすると、記憶論や神話論は、アボリジニの人たちが実際に経験したという、その経験を無毒化してしまう。経験の無毒化とはどういうことかというと、要するに、「それは事実じゃないけれども、でも、それはそれとして重要ですよね」って言って、とにかく掬いあげるわけですよ。事実じゃないんだけれども、何かそこには大切なものがあるはずだと言って掬いあげる、あるいは、尊重する。でも僕はこの、「掬いあげて尊重する」という行為の政治学を問題にすべきだと思います。
尊重するとはどういうことか? たとえば、「アボリジニの人々は、ケネディ大統領がグリンジの長老に出会ったと信じている」と記述する歴史学や人類学は容易に可能なわけですよ。実際、呪術や信仰を論じている人類学の研究報告のほとんどが、霊的、呪術的、心的な経験を、「.....と見なされている」とか「.....とされている」とか「.....と信じられている」といったふうに記述しています。(中略) たしかにかれらの信念を尊重しているけど、「尊重」という名の包摂は、結局のところ巧妙な排除なんじゃないでしょうか。だってケネディ大統領が実際にアボリジニの長老に会ったなんて、研究者は誰も思っていないんだもん。思っていないんだけれども、「それはそれとして大切にしてますよ」というジェスチャーだけはしている。(中略) これでは、僕が提起している問題の解決には全然なっていない。僕はこの尊重の政治学というものの、巧妙な権力作用に敏感でありたいと思いますね。」(ibid 25-27)
保苅さんの言いたいことはよく分かる。しかし、「.....と信じられている」と書くことがすなわち、排除になるかどうか私は分からない。排除というよりも、「私は彼らの話には同意できない。でも彼らはそのように話す」と記述しているにすぎないような気がする。
いや。「私は彼らの話には同意できない。でも彼らはそのように話す」とあえて研究者が堂々と書かないからこそ、問題なのか。
「じゃあケネディ大統領がアボリジニの村に来たということを、歴史学者として──もちろん、人類学の文脈でもかまいませんが──本当に書けるのかどうか。僕は、書けると言いきるつもりはないんです。ただ、そこの問題を粘り強く考えていくことが、もしかしたら歴史学や人類学の新しい課題なのかもしれないと思っています。」(ibid 27)
同意します。
「ギャップはあるんだけれども、ギャップごしのコミュニケーションは可能なはずだって思うんですよ。つまり、「あなたは本当にあったできごとだと思っているかもしれないが、それはじつは神話なんですよ。でもまぁ、僕としては神話としてそれを尊重しますよ」ということではなくて、「あなたの経験を深く共有することはできないかもしれないけれども、それがあなたの真摯な経験であるということは分かります。だから、あなたの歴史経験と私の歴史理解とのあいだの接続可能性や共奏可能性について一緒に考えていきましょう」ということはできるんじゃないか。」(ibid)
私は、上記の試みは遂行可能だと思う。しかし私は、神の存在や妖術の効力を、真に受けることは絶対にないと思う。逆に、「就職していない奴はクズだ」や「30代にもなって親の脛をいまだかじっている奴はクズだ」や「仕事のできない人間はクズだ」といった命題から自由になることも私はできないと思う。「就職」という概念自体が存在しない地域において、私を呪縛する上記の命題は、奇異にうつるに違いない。しかし私にとってはリアルなのだ。さて、どうすればいいのか。
◆
保苅さんは、答えを提示してはいないように思える(第一章しか読んでないけど)。問いをたてることに専念している。
「本書において、僕は、ジミーじいさんをはじめとするグリンジの歴史家たちの歴史分析を、どうしたらリアルに引き受けることができるのかについて、さまざまな検討をしたいと思っていますが、グリンジの歴史語りを分析するという態度からはなるべく距離をとりたいと思っているんです。」(ibid 37)
保苅さんの立てた問いを私なりに翻訳すると次のようになる。
「かれらの言明を研究者である私が真に受けることはいかにして可能か? もしくは、かれらの言明を真に受けることができない自分は、どうして真に受けることができないのか?」
◆
保苅さんが紹介している参考文献に私も目を通したいと思う。
モリス・バーマン 『デカルトからベイトソンへ』
ウィリアム・コノリー 『なぜ私は世俗主義者ではないか』
ディペッシュ・チャクラバルティ 『ヨーロッパを地方化する』
「世俗主義を超える、つまり精霊とか神様とかの世界を、僕たちがもう一回リアルに引き受けることが、アカデミズム、あるいはもうちょっと広く、公共性という枠組みの中で果たして可能なのかどうかという問題。これ、もしかしたら、僕らに突き付けられている、とっても大きな課題であるというふうに思います。モリス・バーマンという人は、その辺のことをどうも真剣に考えているんですよ。」(ibid 28)
私が危惧するのは、精霊や神様という存在を持ち出すことによって、人々からお金を取ろうと画策する輩が、保苅さんの議論によって、免罪されてしまうことだ。明らかに、神などいないと自分は考えているくせに、神の存在をやたら強調し、神に救われる代価として、高額の料金を請求する教祖がいる。こういう人たちについては、従来の自然科学的な反論が有効であろう。
「わたしたちの教義を否定するのは構いません。しかし私たちは神が存在することを知っています。そしてその神の力が宿るこの特別なお守りを販売することによって、神の力を実際に体感してほしいと思うだけです。騙すだなんてとんでもない。お守りを購入したにもかかわらず病気が治らない人がいたとすれば、それはその人の信心が足りないからです。神のせいではありません。しかしそのような方のためにも、我々はさらに強力なお守りを用意しております。神の力がより凝縮されたお守りです。お値段は、それなりにしますが。。。いかがです?」
というふうに話す新興宗教の信者が、病院の近くで人を勧誘していたら、私は問答をしかけたくてたまらなくなる。「お前ら、効果がないことを知りながら、高額のお守りを売っているんじゃないだろうな?」と。とくに、病気にかかり不安で仕方がない状態で心身ともに弱っている人々をことさら狙う新興宗教の信者には腹が立つ。
もしも新興宗教の信者に「神と神の力が込められたお守り」に対する確信があったとしても、同じだ。「本当に効果があるのかどうか」という点について、かれらが真剣に真摯にまじめに誠実に実験と思索を重ねていないならば、そのことを批判したい。
要するに私は、「ちゃんと考えない人」が、嫌いなのかな?
◆
保苅さんは私を不安にさせるような記述も行っている。
「たとえば、「現地の人々」が、病気を治す呪術をあなたに教えたとしましょう。出会いの当初ならいざしらず、長い間一緒に生活し、その土地の言語や生活習慣にも慣れ、十分にラポールが構築されて友情や愛情が芽生えた相手が、体調を崩したあなたにとっておきの呪術を伝授したとき、あなたは本当にその呪術の効果をまったく、これっぽっちも信用しないのでしょうか? 僕には、それを完全に信用しないことは、完全に信用することと同様に困難だと思うのですが、どうでしょう? こうして教わった呪術をねたにして論文を書く研究者は、その呪術を、実際に自分で使ったことは、本当に一度もないのでしょうか? 一度もないとして、なぜそうもかたくなに、教わった呪術を信用・使用しようとしないのでしょうか? あるいは、じつはときどき自分で呪術を使っているとして、どうしてそのことを研究報告に反映させないのでしょうか。超自然的現象を信じてはいけない、という近代主義の、アカデミズムの、世俗主義の要請が、実際に現地で経験・実感した(はずの)「ほんとうらしさ」を無理やり否認してはいないでしょうか。」(ibid 55)
相手に親しみを感じることと、相手が教えてくれた呪術の効果を真に受けることは、異なるレベルの話ではないか? いくら大好きな相手でも、その人が「この壷を買えば健康になれるよ」と私に勧めてきたら、私は自らが感じた違和感に素直に従い、その人の言うことを疑う。壷が実際に健康をもたらすのかどうか、思考をめぐらす。期待するとおりの結果をその壷がもたらしてくれるかどうか考える。そしてその人にいろいろと質問したい。
私は、呪術にたいして懐疑的だ。それは、なにも「超自然的現象を信じてはいけない、という近代主義の、アカデミズムの、世俗主義の要請」に従うからではない。私はむしろ「超自然的現象を信じてはいけない、という近代主義の、アカデミズムの、世俗主義」自体も疑いたい。全部疑いたい(そうするとゲームが成り立たないのでは? 一秒ごとにルールのかわるサッカーなどしたくないぞ)。
なんか話がずれている。
投稿者 shige : 2005年01月23日 21:19
>私は、呪術にたいして懐疑的だ。
なんなんだ呪術って。なにを見たらそれを呪術であるということができるのだ?
自分で書いておきながら、疑問に思う。
いったい、何に対して私は、「呪術」という言葉を使用しているのだろう?
明らかに私は「自分に違和感を感じさせる言動や話」と接したときに、「呪術」という言葉を使っている。
保苅さんも「呪術」という言葉を使っている。彼はどうしてなんらかの言動や話に、「呪術」という言葉を貼り付けることができているのだろう?
どうして「自分に違和感を感じさせる言動や話」を、自らも真に受けることができるようになる必要があるのだろうか? 真に受けることができたら、なにかいいことがあるのだろうか? なぜ彼は、真に受けたいのだろうか? 彼も何かに縛られており、その呪縛から逃れたいのであろうか?
投稿者 shige : 2005年01月24日 22:31
「わたしたちの精神医学を否定するのは構いません。しかし私たちは統合失調症が存在することを知っています。そしてその統合失調症の症状を抑える特別なお薬を販売することによって、精神医学の力を実際に体感してほしいと思うだけです。騙すだなんてとんでもない。お薬を購入したにもかかわらず統合失調症が治らない人がいたとすれば、もっと強力な薬があります。精神医学の力がより凝縮されたお薬です。お値段は、医療保険がきくので、お安くなっておりますが。。。いかがです?」
というふうに話す精神医学の信者がいても、私は問答をしかけたくてたまらなくなる(いるのかそんな医者)。「お前ら、根本的な解決にはならないことを知りながら薬をやたら処方して、人を薬漬けにしているだけじゃないだろうな? 統合失調症ってそもそもなんなんだ?」と。とくに、精神的に不安定で仕方がない状態で心身ともに弱っている人々に、ただただ薬を買わせるだけの精神医学の信者には腹が立つ。
そういえば昔は、脳そのものに針金突っこんで、「分裂病は治りました」とか言っていたよな、精神医学教徒は。
投稿者 shige : 2005年01月24日 23:04
私は、思い込みを犯している。
保苅さんは、「考えること(=懐疑的になること)」を否定しているのではない。
逆に、保苅さんは、「自らの考えを信じて疑わない」状態に、警笛を鳴らしているだけではないだろうか。
仕事で忙しいので、じっくり読めないのがくやしい。ちゃんと時間をかけて丹念に読んだ後、あらためて『オーラル・ラディカル・ヒストリー』についていろいろ書いてみたい。
投稿者 shige : 2005年01月24日 23:23
>私が危惧するのは、精霊や神様という存在を持ち出すことによって、人々からお金を取ろうと画策する輩が、保苅さんの議論によって、免罪されてしまうことだ。
「免罪される」というのは、不適切な言い方だ。
あたかも神の存在を確信しているかのようなそぶりを見せる「ニセ信者」が、人々から疑いの目を向けられる度合いが減る(可能性がある)。このように述べた方が適切だ。
保苅さんは、世俗主義(=神などいないという立場)に盲目的に依拠することに疑問符を突きつける。そのため、もしも彼の意見に同意するならば、いっけん「オカルトチック」に思えるような話を「ニセ信者」から聞いたとしても、それを頭ごなしに否定することは、できなくなる。
「ニセ信者」から「オカルトチックな話」を聞かされた人は、すぐさま「自分は騙されようとしているのではないか?」と考えるだろう。そして、「ニセ信者」の言うことを否定するであろう。「そんな非合理な話信じられない」と。
しかし、このようなつっけんどんな態度は、保苅さんの書物を読んでしまったあとでは、維持することができなくなるのではないだろうか?
「ニセ信者」の前で、人は考え込まざるをえなくなるのである。話をすぐさま否定するのではなく、「ニセ信者」の話に耳を傾け、自らが感じる違和感をおさえながら、「ニセ信者」の話をリアルに受け取ることのできない自分自身について、思いをはせざるをえなくなるのである。
結果、「ニセ信者」の話はすぐには否定されない。彼は話をする余地を十分に与えられる。
◆
「オカルトチック」に思える話(もちろん私が勝手にそう思っているだけなのであるが)をする人を、「自分を騙そうとしているのではないか?」と捉える傾向が、私にはある。これは私の悪い癖だ。明らかに、この癖に基づいて、私は保苅さんの書物が人々に与える影響について考えている。
「考えること(=懐疑的になること)」は確かに大切なことだが、もうちょっと他者に対する信頼というか親しみを持ってもよいのではないか。と悲しくなる。
どうやら保苅さんは、他者に対してとても暖かい思いを抱ける人のようだ。だからこそ、ジミーじいさんによる「オカルトチックで荒唐無稽な話」を、頭ごなしに否定することができないのではないか。
研究には、他者に対する自らの構えが、どうしても出てしまうように思う。
投稿者 shige : 2005年01月27日 00:11
私はタンカスをずっと疑っていた。信じることができなかった。「タンカスは私を騙そうとしているのではないか?」とずっと警戒していた。
レンボガン島を去る前日、私は海辺でタンカスと、酒を飲みつつ座っていた。波音を聞きながら、黙って二人で飲んでいた。
私は思い切ってタンカスに「サクティは本当にあるのか?」と聞いた。
タンカスは、じっと私の目を見た。長い間見ていた。そしてゆっくりうなずいた。
サクティはある。タンカスはそう答えた。
なぜタンカスは沈黙していたのか? それは今でも分からない。
しかし相変わらず私は、タンカスを疑っていた。「本当かよ?」といぶかしがっていた。
これはもしかしたら、とても悲しいことではないか?
保苅さんと私は、まさしくこの点で異なっているように思う。
私は疑いすぎる。騙されるのではないかといつも怯えている。
投稿者 shige : 2005年02月09日 23:54
気にかかるのは、やはり、呪術や妖術といった言葉そのものだ。
どこでもいい。自らを研究者として自認する人物が、とあるフィールドに降り立ったとしよう。
そして彼は、フィールドで生きる人々による、さまざまな「語り」と「語りに伴った行動」を目にする。
彼はそれらを音声なり文字なりの形式で保存し、これらの資料の中から、「呪術」と呼ばれても不思議ではないものを抽出する。
この、抽出作業の際に、研究者の頭の中で働いている「図式」自体に、私は違和感を持つ。
どうやら、研究者の頭の中には、「なにを「呪術」として挙げてもよいのか」という判断をするために、参照するに値する「図式」があるのだ。
「呪術」と「呪術ではないもの」を区別する基準は、実はあいまいだ。研究者により基準は異なる。
違う。このようなことが言いたいのではない。
フィールドで得られたデータを、「呪術」と「呪術ではないもの」に区別する。そして「呪術」として認識されたものを、研究者仲間同士の会合で披露し、「どうしてこのような「呪術」を現地の人々はリアルに受け止めているのだろうか?」という問いを立てる営み自体に、違和感があるのだ。
研究者こそが、「呪術」という言葉に呪縛されてしまっている。世の中にあまた存在する事象を、「呪術」と「呪術ではないもの」とに区別したうえで、「呪術ではないもの」を信頼かつ利用している自分自身が、いかにしたら「呪術」をも信頼かつ利用する気になることができるのか、という問いを立てたりする。
そもそも自分が、「呪術」と「呪術ではないもの」とに事象を分断したくせに、この分断作業のあとで、「呪術」と「呪術ではないもの」とを融合させようとする。区別したくせに、その区別をなきものにしようとする。
なんか変だ。気持ち悪い。
「これこれこういう現象に出会ったら、「呪術」という言葉を使用することによって、現象に言及するんだぞ。」と、いわゆるアカデミックな、研究者仲間同士の会合において、研究者は、「呪術」という言葉とその使い方を教わる。
(↑そんなこと教わらない。ただ、自然に「呪術」と「呪術ではないもの」を区別できるようになるのではないか?)2005/02/13 23:49 追記
そして、フィールドに行き、自分自身が身につけた「図式」に従って、そこで得られたデータを分類する。これは呪術、これは呪術ではない。と区別していく。
やがて、研究者は、研究者仲間同士の会合に再び出席し、「私のフィールドでは、このような「呪術」がありました。」と、自分が収集したデータを仲間たちに披露する。
そしてその際に、研究者は、次のような問いを立てたりもする。
「どうして彼らはこのような「呪術」をリアルに受け取っているのだろうか?」
「どうしたら私は「呪術」をリアルに受け止められるようになるのだろうか?」
これらの問いは、フィールドで得られたデータを、「呪術」と「呪術ではないもの」とに分けたからこそ、設定することの出来る問いではないだろうか?
(↑それはそうだ。)2005/02/13 23:49 追記
私は「呪術」という言葉自体にうさんくささを感じる。仲間うちで「呪術」という言葉を使用し、なにごとかを議論し合っている研究者たちは、まるでなにかのゲームをプレイしているかのようだ。
(↑ゲームをプレイすること自体は、別段責められるべきことではないのでは?)2005/02/13 23:49 追記
「呪術」という言葉を要素として含んだ「語りの体系」があり、これをいちはやく内面化した者が、従事できるゲームを、研究者たちはプレイしているように思えてしまう。
研究者たちは「呪術」という言葉を使用する。しかし彼らは「ではいったい呪術とはなんなのか。どういった現象を観察できたときに、自分は「呪術」という言葉を使用しているのか」といった疑問を抱かない。あたかも、「呪術」という言葉で指し示される「何か」があるかのように、研究者たちは議論を進める。
(↑ 「呪術」という言葉で指し示される「何か」があるかのように、研究者たちは議論を進める。とあるが、これは間違いではないか。「何か」があるとさえ思わずに、「呪術」という言葉を研究者たちは、使いこなしているだけではないか? 「呪術」という言葉の使用に慣れているのである。)
「呪術」に関する語りゲームだ。
(↑同様のことは、「宗教」や「文化」や「本能」といった言葉についても当てはまるかもしれない)2005/02/13 23:49 追記
フィールドで出会うなんらかの対象に、「呪術」という言葉を用いて言及するのは、やめたほうがいいのではないか?
このことが、必要以上に話をややこしくしているような気がする。
「呪術」という言葉よりも、「技術」という言葉を使用したほうがいいのではないか?
「呪術師とその呪術」は、「技術師とその技術」ということになる。
「呪術」という言葉は、あちらとこちらを二つに分断し、このふたつの領域について、研究者たちに思考させてしまう。これは不毛ではないか?
(↑なぜ不毛なのだ?)2005/02/13 23:49 追記
「呪術」という言葉を、うっかり研究者が使用してしまうばっかりに、「呪術」なるものが存在してしまうような気がしてならない。
(↑「呪術」という言葉を現地の人が使用していない場合もあれば、「呪術≒witchcraft」という言葉を現地の人も使用している場合もある。なにも研究者だけが、「呪術」なるものを存在させている犯人ではない。)2005/02/13 23:49 追記
◆
なんか話がまとまらない。思索途中のメモとして残しておく。
今から仕事に出かけます。
(↑ 「呪術」ではなく、「物語」という言葉を使用したほうが、やはり適切な気がする。「物語」という言葉は、「出来事と出来事の結び付き」に注意を促すだけであり、「オカルトチック」や「不合理的」といった言葉とは、すぐには結び付かないように思える。一方、「呪術」という言葉は、「オカルトチック」や「不合理的」といった言葉と容易に結び付きやすいように思える。「呪術」という言葉を使ってしまうと、その途端に、現地の人は研究者とは徹底的に異なる種類の人間として、描かれてしまう。さらに、あちらとこちらという二つの世界が有無を言わさず立ち現れてしまう。「物語」ならば、どうか? 例えば、横浜ベイスターズの佐々木主浩選手は、試合前に必ずプリンを食べるようにしている。プリンを食べると試合に勝てる。このように佐々木主浩選手はいう。これは、いわゆるジンクスと呼ばれるような言明である。そう。ジンクス。我々は、「プリン」と「試合での勝利」を結び付けて考える佐々木主浩選手に対して、「呪術」という言葉を使用しない。ジンクスといったような、ニュートラルな言葉を使用して、佐々木主浩選手の言動に言及するであろう。なぜなら佐々木選手は、我々の「同胞」だからである。同じ「日本人」だからである。しかしたとえばもしも、佐々木主浩選手が、どこか「遠い外国」の現地人であり、そこに研究者が居合わせたならば、佐々木主浩選手は、その研究者の論文において、たちまち次のように描かれてしまうであろう。「佐々木主浩は「プリンを食べると試合に勝つ」という「呪術」をリアルに受け止めている。なぜ佐々木主浩は「プリンを食べると試合に勝つ」という「呪術」をリアルに受け止めることができるのであろうか? そしていかにしたら研究者である私は、佐々木主浩の述べることをリアルに受け止めることができるようになるのだろうか?」 なんだか話が大きくなりすぎてはいないだろうか。どことなく滑稽ではないだろうか。どこか間違っているような気がしないだろうか? だから「物語」という言葉を使ったほうがいいと思う。「物語」は、ジンクスと同じぐらいにニュートラルな言葉に思える。) 2005/02/13 23:49 追記
(↑横浜ベイスターズに勝ちたい球団は、試合前に球場の周辺にある全ての店から、プリンを買い占めたらよい。都合良く呪われていたばかりに、佐々木選手は、たちまち弱っていってしまうであろう。) 2005/02/13 23:49 追記
参考文献
『メンタル強化バイブル』
http://web.sfc.keio.ac.jp/~t99816gm/books/mentaltraining.html
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4262162834/249-5075549-5463527
投稿者 shige : 2005年02月13日 12:13
混乱しているので交通整理。
現在、異なるレベルの話が4つ混在しているように思える。
1、出来事と出来事の結び付きの特異さをめぐる話
2、神や大蛇や精霊といった物理的に観測できない存在に関する話
3、「ケネディがオーストラリアに来た」というような、実際にその存在が物理的に確認できる(できた)であろうものの、空間的移動・動向に関する話
4、「呪術」や「宗教」や「本能」や「文化」といった、抽象的な概念と、それを要素にした「語りの体系(=構造的な比喩的語り口?)」に関する話 (2と同じことだろうか?)
投稿者 shige : 2005年02月14日 00:31
船の甲板のような、新宿駅南口付近の道を、例の話題について考えながら、なんとなく歩いていたら、やはり前方から、ニューギニア帰りの人類学者が、なんとなく歩いてきた。
全くの偶然ではあるが、なんとなく必然的な出会いである。
約8ヶ月ぶりに会ったので、近くの喫茶店へ入り、例の話題について話を聞いてもらった。
例の話題とは、言うまでもなく、『ラディカル・オーラル・ヒストリー』のことである。
◆
「じゃあケネディ大統領がアボリジニの村に来たということを、歴史学者として──もちろん、人類学の文脈でもかまいませんが──本当に書けるのかどうか。僕は、書けると言いきるつもりはないんです。ただ、そこの問題を粘り強く考えていくことが、もしかしたら歴史学や人類学の新しい課題なのかもしれないと思っています。」(ibid 27)
上記が保苅さんの主張だ。いわゆる「オカルトチックな」言明に研究者が出会ったとき、それでは研究者はこの「オカルトチックな」言明について、どのように記述したらいいのか。このことを保苅さんは問題にしている。
まずはこの点をしっかり押さえておきたい。
相変わらず私は深読みをしていたと思う。
「研究者は「現地の人」化するべきだ」と、保苅さんは述べているのではない。「「現地の人」が精霊の存在をリアルに感じるように、研究者も精霊の存在をリアルに感じるべきである」と保苅さんは述べているのではない。「現地の人」が語ったこと─それは「オカルトチック」なものとして観察者には映っている─を、研究者はどのようにして記述していくか、ということを、あくまでも問題にしている。「現地の人」による、研究者にとっては「オカルトチック」に思える語りを、「研究者が論文上で記述する仕方」を問題にしている。
この点を見失ってはいけない。
私はすぐに、「実感主義者」もしくは「ロマンチスト」といったレッテルのもとで、保苅さんを捉えてしまいがちだ。
上記のような判断は、完全に誤りである。
あぶないあぶない。
新宿駅南口で、人類学者に遭遇できて良かった。
私は思い込みが激しいので、絶えず誰かにチェックしてもらう必要がある。
■↑はたして思い込みであろうか?
『ラディカル・オーラル・ヒストリー』の基となった、保苅さんの博士論文『Cross-Culturalizing History:Journey to the Gurindji Way of Historical Practice, PhD. Thesis, Canberra:Australian National University, 2001』の査読者Bは、次のように保苅さんを描写している。
「時に彼は、アボリジニにとって自明な歴史を形成する中心的なエージェンシーたちの神秘的な力が、自分自身の研究計画をも決定したのかもしれないと思う」(ibid 261)
また、保苅さんが日本語に訳した、ピーター・リード著『幽霊の大地』において、ピーター・リードは保苅さんについて、次のように記述している。
「ローカルな場所の力は、ミノのリアリティの知覚をゆがめはじめた。」(ibid 192)
「六ヶ月もたつと、ミノは、もし彼のトラックが路上で止まってしまったら、それはカントリーがそれ以上進まないように彼に警告しているのだということを理解し受け入れるようになった。ヘビを見つけると、彼はその毒性よりも、それが表している男性の秘密である、パワフルなヘビ・ドリーミングを怖れた。最初にカントリーが彼を呼んだのかどうかはともかく、ミノは、彼がカントリーに到着してからのある時期に、カントリーと彼とが形而上的につながったことをもはや疑わなくなった。彼は、洪水の川を泳いで渡るとき、カントリーに庇護を求めた。「そのとき、僕は真剣だったんです。異文化を尊重するなんてことじゃぜんぜんなかった」。彼は、カントリーが彼を知っていると確信していた。」(ibid 193)
保苅さんは、現地の人が感じるように、「大地」を感じているのではないか?
◆
私は、躍起になって「実感主義的民族誌家」の姿を見つけようとしている。
このようなことはとても不毛なことのように思える。もしも査読者Bやピーター・リードが描くように、保苅さんは、「オカルトチック」な話を真に受けることができるようになってしまったとしても、このことは特に指摘するべきことではないように思える。ファブレ=サアダが妖術の効果に恐れおののくことができるようになったように、たとえ、保苅さんも「大地」といった「オカルトチック」な存在をリアルに捉えることができるようになったとしても、これは特に注目すべき出来事ではないような気がする。
これは実は、自然なことのような気がする(根拠がないけれど)。
むしろ問題にすべきは、どうして、ファブレ=サアダや保苅さんのように、「現地の人」の話を真に受けることができない人がいるのか、ということではないか?
どうして、すっと入り込めないのだろうか? 現地の人の語る話に。「オカルト」とそうでないものを選り分ける、強力な検閲装置が、頭の中に埋め込まれているかのようだ。
投稿者 shige : 2005年02月27日 16:57
>これは実は、自然なことのような気がする(根拠がないけれど)。
いや。自然なことではない。
どのようにしてファブレ=サアダや保苅さんは、「現地の人」の話を真に受けるようになったのだろうか?
構造調整の結果ではけしてあるまい。
投稿者 shige : 2005年03月01日 23:19
↓面白い。考えさせられた。