やっぱ


ベイトソンの『精神の生態学』は面白い。

有給休暇を取ったのをいいことに、一日中読みふけってしまった。

文章をなぞっているだけで、気分がよくなってくるのは、なぜだ。

「バリの人たちが、形なく名状しがたい、時間のなかにも空間のなかにも位置づけられない「おそれ」によって、忙しさと幸せとを保っているのであれば、われわれとしても、多大の成果を期待して、形なく名状しがたい「希望」を抱きつづけるという行きかたがありうると思う。その成果が何かということは、曖昧なままでいい。それが何かは分からないまま、いつも成果が間近い事を確信していること。実際に間近いかどうか、そもそも検証できないことなのだから。喩えていえば、世紀の大発見や、いまだかつて書かれたことのない完璧なソネットが、いまにも自分を訪れるかのような気持ちにひたって仕事に打ち込む科学者や芸術家のように生きる、ということである。あるいは、わが子が将来、偉大さと幸福を兼ねそなえた、限りなく不可能に近い人生を歩むことを、本心願って手を尽くす母親のように生きる、ということである」(ベイトソン 2000:254)

会社で仕事をうまくこなすことができない私にとって、上記のような文章を書き写すことは、まるっきし癒しの効果を持つ。

なんだか、写経に近いものがある。

学習2の考え方がいまひとつ腑に落ちない。

「事実、心理学のラボでは、研究者たちの意識が注がれているのより、いささか抽象性と一般性の度合いが高いレベルの現象が、ごくふつうに生起している。被験者となる動物や人間が、実験を経ていく中でしだいに”優秀な”被験者になっていくという現象がそれだ。ただ単にしかるべき時点でヨダレを垂らすことを習得したり、無意味な音節を丸暗記したりすることに加えて、いわば「学習することを学習する」learn to learnということが起こっているのである。実験者があてがう問題をそのつど解決する、という単純で個別的な学習と並行して、問題を解くということ一般に対して、被験者がしだいに熟達していくのだ。」(ibid:246)

上記の文章と、379ページで展開されるイルカの訓練の話はどうつながるのか。

イルカの話は、学習2から学習3への飛躍に関する話だと私は理解している(←間違いの可能性あり)。では、イルカが学習2したこととはいったいなにか? 

「水槽に入ったイルカが水面上に顔を出すと、笛が鳴って、餌が与えられる。再び顔を出すと、再び強化が与えられる。」(ibid:379)

この繰り返しの結果、イルカが学習1したことは、「顔をだせば笛の音とともに餌がもらえる」ということである。

では、この繰り返しにより、達成された学習2の内容とはなんであろうか? 

ここが分からない。

会社でいつも何かを学んでいる私を、私は観察したいのだ。私は何を学習しており、そして、なぜその学習は周囲の期待通りに達成されにくいのか。この理由を私は知りたいのだ。

学習することが下手な私が、まさにそうでしかない仕組みを明らかにしたい。仕事のできない私は、毎日強くこのように思う。

だから、ベイトソンのことを思い出してしまうのである。

明日会社だ。もう寝なきゃ。

今日の思索はここまで。