学習する人生
雨が降っている。風も強い。はっきりいって寒い。
こういう日は部屋でひたすら本を読む。
入社して以来、30冊ぐらい本を買ってしまったので、それを読もうと思う。積ん読は良くない。
そうそう昨日、オラクルのSQL入門の試験に受かった。
嬉しかった。
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夕飯の材料を買うために、雨と風のなか、駅前近くまで買い物へ。
風と雨が強くことをいいことに、歌を歌う。
元ちとせの「この街」をこぶしをきかせて歌いながら、歩く。
非常に気持ちよい。
駅ビルのデパートの地下で、試食品をいくつかつまいぐいしたあと、豚肉と卵とほうれん草とオレンジジュースと味噌を買って帰る。
今日の夕飯は、キムチチャーハンとほうれん草入り豚汁であった。
うまかった。
◆
日々、私は会社でコンピュータ関係のことを学んでいる。学習している。
なんらかの問題を、恒常的に解いているような状態だ。
いままで、様々な問題に取り組んできた。だからこそきっと、私は「学習することを学習」しているはずだ。
1+1=
という形をみたら、すぐさま
1+1=2
というふうに、イメージできるよう、訓練することを通して、私は下記のことも密かに学習しているはずだ。
「=」という形を見たときには、必ずなんらかの値を補うべきである。
つまり、1+1=
という形を見たならば、すぐさま、「むむ。=の右側になんの値も入っていない。値を入れなければ!」と思考するように、なっている。
こういう学習のことを、確か、学習2と言うんだったっけ?
「学習することを学習する」という言葉を用いて、私が表現したかったことは、「コンテクストを学習する」ということに他ならない。
しかし、このことに関して私は昔のようにいっきに思考をめぐらすことができなくなっている。
3年前に作った、「精神の生態学」のレジュメを見ながら、忘れていたことを、思い出そうとした。
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『精神の生態学』 グレゴリー・ベイトソン 「精神とコミュニケーションの階型論」
1、本論全体の主張 = 行動科学は学習の問題とかかわっている。そして、学習の問題について考える際に、論理階型理論の知見は欠かすことができない。
2、論理階型理論 = クラスはそれ自身のメンバーにはなれないということ。例、「ジョン・ベイトソン」は、あの少年を一個のメンバーとして含むクラスである。← ? ジョン・ベイトソンという名の少年が世界中には大勢いるということだろうか?
3、コミュニケーションの世界に、論理階型の考え方は欠かすことができない。例、ネズミの「探求(クラス・カテゴリー)」と「行動項目(そのメンバー)」をちゃんと区別する重要性。← ネズミはいつでも目の前にある物体が危険なものか否かを「探求」するものなので、強化の法則によって「探求」の頻度をとらえようなどという実験は、もともと不可能だ、ということだろうか?
4、学習にもさまざまな論理レベルがある。
4−1 ゼロ学習 = 一定の刺激に対する反応が一定しているケース。刺激と反応のつながりが遺伝的に決定されている場合。失敗から学ぶことがない。
4−2 学習1 = あるコンテクスト(他の事象との関係のあり方のセット・まとまり─P395より)のもとで、ある一定の動作・解釈をするようになること。例、パブロフの犬
4−3 学習2 = コンテクストを学習すること。例、ビターマンの逆実験 or 神経症生成実験(ダブルバインドが引き起こされるには、コンテクストの学習がなされていなければならないということ)
4−3−1 学習2が人間関係の場で現われるその様子
a) 性格をあらわす形容辞は、学習2の結果として習得されたパターンを記述したものであること。例、宿命観が強い人
b) 人間の相互作用の枠づけられ方。その人間と周囲の人間(および事物)との交渉を記述するもの。人物Aの言動が人物Bの依拠するコンテクストによって様々に解釈される。Bが呪縛されているコンテクスト次第で、Aの言動はBへの刺激や反応、強化としてBによってみなされる。
c) 転移の現象。患者がセラピストに自分にとっての重要な他者(たいてい親)が過去に自分を扱ったのと似た扱い方で自分に接するよう迫ること。(学習2が達成された成果として)患者の身に染み付いたコンテクストに従って、患者はセラピストとのやりとりを形作ってしまうこと。世界を見る際に不可避的に参照してしまう暗黙の前提(コンテクスト)が存在しているので、否応なく見に染み付いたコンテクストにもとづいた世界を見てしまうということ。
4−4 学習3 = 自らがあるコンテクストに盲目的に依拠したうえで事象の意味付けを行っていることを自覚し、自らが呪縛されるべき(依拠するべき・身を任せるべき)別のコンテクストを取捨選択できるようになること。P412
a) サイコセラピスト、患者に染み付いている前提の入れ替えに挑戦。前提は自覚されにくく、自己妥当性(内部で閉じているということか?)を持つものなので、これは至難の業。その際のセラピストの戦略は、①患者が依拠する前提とセラピストの前提との衝突を図る。②患者を、診療室の内外で、患者自身の前提と衝突するような行動をとるように導く。③患者の現在の行動をコントロールしている諸前提間(患者を呪縛している前提は多く存在しているということか?)の矛盾を引き出して見せる。④患者が持ち込んできた前提の上に乗った経験が、馬鹿げていることを、風刺画のかたちで見せる。←いずれにせよ、患者が暗黙の前提としていることがらを自覚させ、その虚構性を理解させしめようとする。
疑問・コメント
1、P409。「コンテクストを構成する行動が、過去になされた学習2に支配されるということは、有機体が、自分の期待する型に全体のコンテクストが収まっていくように行動していく、ということにほかならない。」という箇所について
原文は、「behavior is controlled by former Learning 2 and therefore it will be of such a kind as to mold the total context to fit the expected punctuation.」
浜本論文からの引用↓
「物語」という言葉の使用には、ことさらその語りの虚構性を強調するといった意図は含まれていない。それは出来事や経験が、「事実そのままに」語られるという際に、そうした語りのもつ独特の特徴に注目させる意図で用いられている。つまり語りは常になんらかの「筋 plot」によって組織されるしかなく、この筋がそこで何が語るに足る出来事であり、何が意味のない出来事であるかを決定する。出来事は語られる時常に、そして既に他の出来事に関係付けられている。そしてこれは我々の現実経験の構造そのものなのだ。つまりこの意味で、我々は現実の経験を常になんらかの物語の経験としてしか持てないのだと言ってもよい。『マジュトの噂 :ドゥルマにおける反妖術運動 (The Second Draft)(註2)』
ベイトソンと浜本を融合させると↓
「物語」=「筋 plot」=「学習2の結果染み込んだコンテクスト」。「自分の期待する型に全体のコンテクストが収まっていくような行動」=「語り」。という等式は成り立つだろうか。「語り」は学習2において身に染み込んだコンテクストにもとづいて生産される行動のひとつであり、さらにそのコンテクスト自体を形成していくものでもあるといえる。p409の個所を、次のように言い換えてもいいだろうか。「なんらかの経験のリアリティが学習2の際に埋め込まれたコンテクストが要請するところの「語り」によって作り出され、学習2の際に埋め込まれたコンテクストはその存在をさらに補強される」
2、4−4のa)、セラピストの戦略について
患者を呪縛する暗黙の前提を明るみにだし、その虚構性(セラピストからすれば虚構としか思えない暗黙の前提)を理解させることは、患者をダブルバインドの状態に置くことであり、ものすごく危険な作業であるように思える。しかし、この作業の様子をいまいち具体的にイメージすることができない。この作業に関する事例を読んでみたい。
また、セラピストの戦略を無効にするために患者が動員する抜け穴として、「強化が来ないということが必ずしも自分の反応が誤りだという意味にはならない、そういうコンテクストに自分はいるのだ」というコンテクストが持ち出されるという(p411)。しかし、この作業の様子も具体的にイメージすることができない。このような抜け穴が患者によって持ち出されている具体的な事例が読みたい。
この抜け穴とは、あくまでも自らが依拠する前提(コンテクストA)が保持されるようにして、別のコンテクストBが起動するということだろうか。コンテクストAの矛盾性を暴露する事象が、コンテクストBにもとづいて、解釈されていくということだろうか(コンテクストAの矛盾性を隠蔽するかたちで)。だとしたら、このようなコンテクストBの起動は、「虚構を現実として生きることができるメカニズムのひとつ」だといえるのでは。
この抜け穴としてのもうひとつのコンテクストは、たとえば妖術師撲滅運動が起こった際に、ドゥルマの人々が、あくまでも妖術と妖術師の存在を絶対的な前提にしたまま、事象を意味付けていく過程で、動員されていたものではないだろうか(←ドゥルマの人々はなにも「妖術や妖術師など本来存在しない」という前提を、彼らが依拠する前提である「妖術や妖術師は存在する」というコンテクストと対比させられたわけではない。したがって、妖術撲滅運動の際に、ドゥルマの人々がしたことは、あくまでも「妖術や妖術師は存在する」という既存の前提にもとづいた「語り」の再生産であり、コンテクストBの動員ではない)。
3、最近見た「ビューティフルマインド」という映画において、小さな女の子をリアルに知覚することができてしまうジョンという人物が、「女の子が時がたってもいっこうに成長しない」ということに自力で気付き、その女の子を妄想とみなせるようになっていた。この話を、セラピストの戦略の話に引き付けて考えてみれば、「子供は時がたてば成長するものだ」という前提と、「いつまでたっても成長しない女の子」という前提が、見事に衝突している事例とみなすことができる。ジョンという人物は、見事学習2から学習3への移行を果たしたといえる。しかし、「子共は時がたてば成長するものだ」という前提は、いままでジョンのなかでどのようにして封印されていたのだろうか。どうしてこの前提は、意識されることがなかったのだろうか。という疑問が残った。「成長しない子どももいる」というコンテクストBにあたるものが動員されていたのか、それとも、単に意識されなかっただけだろうか(←この意識化を阻んでいた要因は一体なんだろう?)。
4、学習3を達成した結果、「私」の溶解がはじまるとある(415p参照)。これはどんな状態なのだろうか? 是非体験してみたい。
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私はまだ「学習2」について、ちゃんと理解できていないような気がする。
ちゃんと理解したい。