近所に住むユタとの対話
・実家から200メートルほど離れたところにあるてんぷら屋のおばさん。彼女がユタであることを、近所の売店のおばさんから知り、すぐさまてんぷら屋へ向かう。なんたることか。約13年間見慣れていたてんぷら屋のおばさんが、ユタだったなんて。
・結論から言うと、ユタの言うことは場当たり的だった。論理的一貫性に欠ける。話の前半では、病気の原因として「とある御願所の神*1」をあげておきながら、話の後半では、病気の原因として「他人のことを気にしすぎるという私自身の人間的な弱さ、脆弱さ」をあげた。「とある御願所の神」が原因で病気は引き起こされているのか? それとも、「他人のことを気にしすぎるという私自身の人間的な弱さ、脆弱さ」が病気の原因なのか? ユタは、「話の前半で自ら下した判断」と、「話の後半で自ら下した判断」との関係について一切触れない。ユタは自らが下した判じの論理的一貫性を気にしていないようだ。ユタは、異なる物語を、同時に客へ提示している。しかしユタは「病気の原因は実はふたつある」と言うわけでもない。話の流れで、まさに場当たり的に、ユタは思いついたことを喋っているとしか思えない。
・褒めたり、けなしたりすることによって、ユタはお客を、とにかく感情的にさせたいのだろうか? 例えばユタは次のように述べる。「あなたは外見はちゃらちゃらしていてとても軽快に見えるが、実は繊細で弱い人間だ。」「あなたは一見大人しく頼りなさそうに見えるが、実はしっかりしており本質を見極める能力のある人だ。」「サーダカ生まれだからっていい気になるな。」
・ユタには個人的見解を述べて欲しくない。「あなたの病気は、他人のことを気にしすぎるというあなた自身の人間的な弱さ、脆弱さに起因している」などと述べてほしくない。これならそこらへんのおばさんでも言える。「霊が見える。霊の声が聞こえる。神の声が聞こえる。」というユタ自身の持ち味だけを出して欲しい。ユタが我を出してしまうと途端にしらける。そこらへんのおばさんと同じ存在になってしまう。ユタならユタらしく「霊や神の意思」を代弁すればよいものを。ユタが下手に主体性を持ってしまうのはいただけない。ユタはできるだけ我を押さえるべきではないか。
・私は強く思った。職を失い路頭に迷ったらユタになろうと。こんな楽な商売はない*2。座って話をするだけでお金が稼げる。スピリチュアルかつ断定的な物言いをガンガン炸裂させる自信はある。
・ユタの動きは中途半端だった。ユタはまずはじめに、私の名前と生年月日と干支、そして住所を紙に書かせた。そしてユタは背後の祭壇に向かって、その紙に書かれた内容を沖縄口で読み上げ始めた。どうやら祭壇にいる神にお客の情報を伝えているようである。沖縄口による報告が終ると、ユタはしばらく目をつぶり、聞き耳を立てているようなそぶりをした。そしてその後でおもむろに私へ話しかけてくる。例えばユタは、「事故にあったことがあるね?」と聞いてきた。ユタによると「神がそういっている」という。終始、ユタとの対話は、祭壇にいると思われる神への沖縄口による情報提供活動をあいだにはさみつつ進んだ。しかし、時折ユタは、この「神への沖縄口による情報提供活動」を省略する。神に伺いを立てるという行為をはしょり、ユタ自身がいきなり私の問いに答えてきたり、問いを私に発したりするのだ。神の声を代弁する身であるならば、いつも欠かさず「神への沖縄口による情報提供活動」を行うべきではないだろうか? お客の質問や情報を沖縄口に翻訳して神に伝える作業を、ユタは時折忘れるのだ。中途半端だ。ユタならば神をないがしろにするな。
・しかし、感心したことがいくつか。そのユタは常に堂々としており*3、かつ、表情が豊かだった。そして、複数の出来事を結び付けて提示する能力、つまり物語る能力(プレゼン能力)に長けていた。これらについては今後とも私も磨いていきたいと思う。
・気になるのはユタであるてんぷら屋のおばさんよりも、彼女のことを私に教えてくれた売店のおばさんだ。売店のおばさんは、ユタに会いたいと述べた私を、じっと見つめた。「からかっているのではないか?真剣なのか?」 このようにおばさんは思っていたのだろう。下からじっと食い入るように私を見つめた後、次のように述べた。「…あんたはユタ信じるの? 男性はあまり信じないし、それにあんたはまだ若いし…。ユタは、信じている人しか見たくないって言うよ。」 もちろん私は信じているふりをした。真剣な表情を作ってみせた。売店のおばさんは私のいつわりの真剣な表情を見て、やっとユタの居所を教えてくれた。なぜ売店のおばさんは、ユタにはまりこめているのか?
・もしかしたら、私をじっと食い入るように見てみせた売店のおばさんは、そうすることによって私を、ユタの世界に引き込もうと意図していたのではないか? 実は、てんぷら屋のおばさんと売店のおばさんはグルで、ふたりして人々を、ユタの世界に引き込んでいるのではないか? チームプレイによる新手の霊感商法?
・人の意図をさぐるのはやめたほうがよい。あくまでも「語り」だけを収集したほうがよい。なぜなら意図は、こちらがどうにでも読み込むことができるから。
・相談料は3千円だった。誰がこの価格を決めたのか?
・てんぷら屋のおばさんは、やはりカミダーリ経験者だった。ある日突然おかしくなり、夢の中で神が服装や拝み場所を指定してきたという。神が自分自身に課した課題(御願所巡り)を16年かけて達成し、カミダーリによる不眠症から脱出できたのだという。
・面白いことに、てんぷら屋のおばさんは師匠のユタを持たない。大部分のユタは、師匠となるユタのもとでユタ修行をつむ。しかしてんぷら屋のおばさんは自力でユタになったという。おばさんは自称ユタということになる。とはいえユタの資格などもともと存在しないので、周囲が認めれば誰でもユタを名乗れるのだろう。
・やはりおばさんは、「ユタになどなりたくなかった」と述べた。世間の人々による「ユタは嘘つきだ。」という認識を、おばさんは熟知していた。だからこそおばさんは、周囲の人には、自分がユタであることを隠しているのだという。近所の人間に対しては、「どうしても見て欲しい」と請われたときだけ、ユタとして対応するのだそうだ。
・私は、てんぷら屋のおばさんが、「自分のリアル」と相反することを述べているようには思えない。しかし私はおばさんに、どこかマニュアルめいた動き*4をしているような気配を、感じないでもない。
・語られることがすべてだとは思うのだけれど、私はどうしても「自分のリアル」にこだわりたい。これを常に物理的に捕捉できるかのようなモノとして想定することは、問題含みの行為であり、なるべくならこのようなことはしないほうがよい。しかし、好きでもない人に「好き」と言うときに感じるあの嫌な感覚をないがしろにしてはならないと思う。根拠はないが。
・あからさまに原因探索的な問いかけをこちらに放ってくるところがあやしい。ユタならば、質問などせずとも、私のことをすべて把握できるはずなのに*5、「大きな事故にあったことない?」とか「どこかの御願所をいたずらしたことない?こわしたことない?」と聞いてくるのはなぜだろう? どうせなら何も聞かずに、私のすべてを見透かして欲しい。そしたら安心して私はユタの話に入り込める。
・私は、他者によるどのような語りを、オカルト的とみなしているのか? まず私は、他者の語りに登場するモノが、「物理的に存在しているかどうか」にこだわる。そしてそれが「物理的に存在していることを証明できない」と私によって判断されたならば、それが含まれた他者による語りを、私はオカルト的とみなす。例えば、ユタの語りには、神というモノが登場する。私はそのことをもってユタの言動をオカルト的とみなす。しかし私はこのような自分の傾向をアホらしく思う。「物理的に存在していることを証明できない」モノは、私の語りにも頻繁に登場するではないか。例えば、愛というモノ。これらは「物理的に存在しているモノ」とは言いがたい。これらは言葉だけの存在であり、「物理的に計測不能なモノ」だ。つまり私の語りも十分オカルト的ということだ。ある人類学者が彼のフィールドで出会った人物は、以下のようなことを述べたという。
「憑依霊(p'ep'o)は我々風に言えば、身体のなかにいる。でも見えないよ。ムブルガに行くと、占いを打ちに行くと、お前は告げられる。「お前には憑依霊(nyama)がいる。お前にはロハニがいる。」「へぇえ!」という訳だ。それでいて、ロハニというのはこいつだといった風にそいつを目で見ることはできない。いわば言葉だけのものだよ。言葉として与えられることになるだけだよ。」
from ドゥルマの占いにおける説明のモード
つまり、私は、「物質の世界」と「言葉による差異と区分の世界」の区別をおろそかにしているということだ。「言葉による差異と区分の世界」の領域の話を、「物質の世界」の土俵で私は議論してしまっている。
・とはいえ「物質の世界」と「言葉による差異と区分の世界」の区分は、そもそもどのようにして成り立たせることができているのだろうか?*6 ユタや私の母などは、世界を「物質の世界」と「言葉による差異と区分の世界」のふたつの領分に区分してはいないように思える。「霊はいる」「神はいる」と述べる彼らにとって、世界は「物質の世界」かつ「言葉による差異と区分の世界」として体験されているように思える。それに対して私は、どうやって線を引けるのか説明できないにもかかわらず、しっかりと世界を「物質の世界」と「言葉による差異と区分の世界」に区分し、そして「言葉による差異と区分の世界」の領域の話に思える語りを、「物質の世界」における視座から、すぐにオカルト的とみなそうとする。こんな私はどこか滑稽ではないだろうか?
・「信仰している人々」と「人々の信仰を利用しようとしている人」。前者に比べ後者は信仰から距離を取ることができているといえる。一方、後者と異なり前者は信仰を真に受けている。彼らは信仰を疑うことをしない(ように思える)。彼らは疑うことを放棄しているのか? それとも疑うこと自体を行えないのか? 疑うにはそれなりの能力(知力!)が必要だとでもいうのだろうか? 逆に、疑いすぎる人は、信仰から疎外されているともいえる。彼らは信仰に入り込むことができないという障害を持っているともいえる。うーん。ここらへんの議論を某O杉先生のゼミに参加して、掘り下げてみたい。
・たとえて言うならば、私は、結婚詐欺師の行動基準で結婚という制度を理解するのではなく、結婚詐欺師が結婚詐欺師になってしまっていること自体を問題化したい。この結婚詐欺師は、常に結婚という制度の外側にしかおれないのか?それともその気になれば結婚という制度に埋没することもできるのか?
ドゥルマ族の憑依霊信仰は東アフリカというコンテクストのなかでは、けっして特異な信仰形態ではない。それはルイス(I.M. Lewis)がさまざまな意味を込めて「周縁的精霊憑依(peripheral spirit possession)」と呼んだ、東アフリカにも広く見られる憑依霊信仰の一部をなしていると考えることができる(Lewis 1971: 31)。彼によると周縁的精霊憑依の「周縁性」は次のような特徴によくあらわれている。(1)精霊はもっぱら、あるいは主として、男性優位の社会における女性、成層化した社会における下層民といった具合に、社会の周縁的な構成員にとりつく。(2)精霊の振舞いは気まぐれで、被害者の道徳的責任は問われない。精霊は社会構造や道徳規範を維持する点で何の役割も演じていない。(3)精霊はしばしば当該社会の外部に起源をもつと考えられている。この三つは必ずしも論理的なつながりはもたないが、ルイス自身が調査したソマリ族のサール(sar)信仰をはじめ(Lewis 1969)、彼が問題にするいくつかの典型的なケースでは確かにはっきりと結びついてあらわれる。
彼によるとこうした周縁的精霊憑依は社会的弱者にとっての一種の間接的抗議手段、「遠回しの攻撃戦略(oblique aggressive strategy)」になっているという。つまり精霊憑依は、そうでもしなければ自分を認めさせ要求を聞き入れさせるための通常の手段を持ちあわせていないような社会的弱者や被抑圧者、とりわけソマリのような男性優位の社会における女性たちにとって、彼らの利害にぴったりの形で機能しているというのである。
こうした結論を導くにあたって、ルイスは次の二つのことを想定している。(1)精霊が患者の口を通じて課す要求は、実は患者自身がもっている要求である(それ以外の何でありえようか)。(2)患者は憑依状態において彼女の日常においては決して許されないような地位の上昇を味わう。彼女は丁重に扱われ、その発言のすべては精霊の権威をもって尊重される。これこそ患者が求めているものに他ならない。同様の前提は、ルイスの分析に刺激を受け、それを修正ないしは精緻化しようとするいくつかの試みにも共通してみられるものである(Wilson 1967, Gomm 1975, Constantinides 1977)。
このように、すべてに個人的利害の「偽装」を嗅ぎとってしまう見解が、完全に的外れだというわけではない。実際、露骨に自らの物欲を満たすため精霊に憑依されたふうを装い、それが露見してひどい目にあった女性の例などがこの種の信仰に注目した最も初期の研究以来報告されてきているし(Lindblom 1920)、ルイス自身もこれに類した事例を報告するのに余念がない。当の社会の男たち自身、女性に対するこうした疑惑をあからさまに表明しているというのである(Lewis 1969:207-209)。
しかしながら、我々にとってこれが的外れでないと言えるのは、そもそもいかなる制度も、程度の差はあれ、その「個人的利用」に道を開いているものだ、というなかば自明の事実を追認する限りにおいてである。ある制度の隠された道具性を指摘することは、法学者ハート(H.L. Hart)が「内的見解(internal view)」と呼んでこうした「外的見解(external view)」と区別したところの、その制度の論理に即した制度理解をもたらしてはくれない(Hart 1961:86-88)。そうすることはいわば、結婚詐欺師の行動規準によって結婚という制度を理解しようとするようなものである。
私はむしろ結婚詐欺師が、結婚詐欺師になることができている理由を明らかにしたい。なぜ結婚から結婚詐欺師は距離を取ることができているのか? そして結婚詐欺師は、結婚という制度をいつも外側から眺めることしかできないのだろうか? 結婚詐欺師は、結婚詐欺師に騙されることは絶対にないのか? 結婚詐欺師にとって、結婚という制度が「個人的利用」の対象ではなくなるときはくるのか? つまり結婚詐欺師が結婚にはまりこむのはいかにして可能なのか?
・下記の本を読むと、すべての霊能者あるいはすべての宗教者が詐欺師に思えてくる。
しかし、霊能者や宗教者は詐欺師ばかりではないだろう。本物もなかにはいるはずだ。本物とは、彼らの述べることが彼らの信仰内容と一致しており、信仰との距離化が全く行えていないような人物を指す。つまり本気で「霊はいる」「神はいる」と述べるような人々を指す*7。「霊なんているわけないだろう。ただそう言っていれば目の前の客は金を払ってくれる。だから「霊はいる」って言っとけばいいんだよ。楽勝楽勝。客は馬鹿だからすぐに騙される。あるいは客は完全に霊の存在を信じているからすぐに騙せる。」という語りが、一切頭の中をめぐることのない人物を指す*8。このような本物までもが、偽者達のせいで、嘘つき扱いされてしまうのが私はくやしい。リアルに霊を降ろし、リアルに霊の声を聞き、本気でお客に霊の声を伝える本物がいるのならば、私はその本物と、彼らを模倣するだけの中途半端なエセ霊能者とを厳密に区別したいと思う。そして偽者を私は徹底的に叩き潰したい。ただし、たとえ偽者であっても、あくまでも本物として振舞う気概のある偽者ならば、許す。
↑「あくまでも本物として振舞う気概のある偽者」と本物は、区別することができないのではないか?そもそも本物と偽者を区別することはどのようにして可能なのかが明らかではない*9。なので、本物と偽者の呪術師を見分けるなどという試みは捨てて、あくまでも呪術師の話を真に受けるお客に注目し、お客が呪術師の話を真に受けるメカニズムを探求したほうがいいのかもしれない。あるいは、「お客はどのような呪術師を偽者とみなすのか?─客による呪術師選別の仕組み」という問いを立ててみるのもいいかもしれない。
・霊あるいはお化けのイメージを、私は、幼少の頃に読んだ絵本『ねないこだれだ』によって形成したように思う。あの絵本の表紙はインパクトがあった。とても怖かった。4歳ぐらいの頃だっただろうか。あの表紙から私は目をそらすことができなかった。あの絵本が、霊あるいはお化けのイメージを初めて私に焼き付けたと思う。
あの頃は絶対的な恐怖の対象であった『ねないこだれだ』の表紙を、下記のページで行われているようにパロディ化する実践は、既にあの表紙の与える恐怖から自由になれたからこそ、可能なのだと思う。
https://matome.naver.jp/odai/2140301062979629101
さて、どうして私は、あの表紙に恐怖を感じなくなったのであろうか? いつの頃からどうして私は「夜は早く寝なきゃ!」とリアルに感じることができなくなったのであろうか? 「学校教育によって科学的思考が育成された結果、私は霊やお化けを真に受けることができなくなった」というわけではないだろう。なぜなら、学校では霊やお化けに関する授業は全く存在していないからだ。それらが公然と説得的にその存在を否定されるような授業は、学校には存在しなかった。私が霊やお化けの存在に懐疑的になれたことは、「おばけなんてないさ」といった対抗言説的な童謡や、同年代の友人たちとの会話にその多くを負っていると思われる。
・ケニア東海岸部の山奥で、私は「憑依霊の絵」を見たことがある。とあるムガンガ(ケニアの呪術師)の家の壁に貼ってあった白い紙に、人の顔をした蛇の絵が描かれていた。非常によく描けていたので私は驚いた。なんとなく、ドラゴンクエストやFFなどに出てきそうな絵柄だった。「誰が書いたのか?」とムガンガにたずねると「街の絵描き」という答えが返ってきた*10。なんのために憑依霊の絵は壁に貼られていたのだろうか? 憑依霊の絵は憑依儀礼のために必要なものなのだろうか? 疑問が残る。
中学生憑依霊事件の顛末
・霊に憑依された本人に会うことはできず。いろいろと忙しかったこともあり、彼をさがす気力がなかった。その代わり、事件の現場に居合わせた幼馴染から当時の話をきくことができた。
「教室で数人で「お前は誰が好きか?」って話をしていた。そしたら急に霊があいつにとりついた。女子もひとり霊にとりつかれた。二人は一緒に校舎の3階から飛び降りようとした。カップルの霊がとりついたらしい。」
・なんとなく、こっくりさん現象に似ているような気がする。
国際通り歩き
・新しい店ができているが、基本的に雰囲気は変わらない。
・市場に活気がなかった。平日だったからだろうか?
・OPAのタワーレコードで地元インディーズのCDを聞く。
・高良レコードで三線の楽譜を買う。三線コーナーが4年前よりも大きくなっていた。三線を買っていく観光客が多いのだという。「沖縄にはよく来るんですか?」と店のおねーさんに聞かれる。「はい。よく来ます。」と答える。『よなは徹の三線教室DVD付き』を手に入れた。
・会社の人たちにお土産を買おうとFREE ONEというお店でお菓子を物色。店のおばさんに「九州からきた人?」と聞かれる。「半分はそうです。父は九州男児です。」と答える。泡盛ケーキを手に入れた。
・旅行者用のゲストハウスがいたるところに出現していた。一泊1500円。沖縄を訪れる旅行者の数が増えているのだろうか。
・パレットくもじ前の十字路にある本屋で『カラカラ』という地元雑誌を読む。与那原恵さんが連載を持っていた。
池田原人の生態
・車で移動中に何度も池田原人をみかける。
・服装が夏仕様だった。穴だらけの着物?を着ていた。とはいえほとんど裸だ。
・頻繁に見かけることができるのは、原人が年をとり、あまり広範囲を移動しなくなったからではないか?
・忙しさのために、コンタクトを取ることかなわず。
・昔よりいくぶん筋肉が落ちてしまっていたように思う。
・夜に見かけた原人は、歩道でうつぶせになって寝ていた。
motorcycle drive by
・実家の私の部屋で、サードアイブラインドのCDを見つけた。高校時代によく聞いていたCDだ。その当時の私の心理状態とマッチしまくりの歌詞を再び耳にしてみた。
*1:ユタによれば、神は自分と波長の合う人間に助けを求めてくるという。助けを求められた人間は災いに見舞われる。このような場合には、沖縄式のお祈りを神に捧げ、「自分に神を助ける力はないこと」を神に伝える必要があるのだという。ユタによると、祈りを捧げるべき人物は、災いに見舞われている人間が未婚の場合、その人物の親だという。そして親が祈り方を知らない場合は、ユタが祈り方を指導してくれるのだそうだ。ただし有料で。ユタによる判じは、非常にうまい営業トークになっている。お客の悩みを近所の御願所の神と結びつけることにより、ユタは拝み代をまんまとせしめることが可能だ。ところでユタは、お客の悩みが御願所の神によって引き起こされていることを、どのようにして正当化しているのか? 答え。ユタによれば、その御願所の神の声が聞こえてくるのだそうだ。これにて正当化は達成される。「本当か?本当に神の声が聞こえるのか?」とユタに問うたら、ユタは「聞こえる」とのみ答えた。「ユタは神や霊の声を聞くことができる人間である」ということを、あらかじめお客が全面的に認めているからこそ、ユタの判じは受け入れ可能になっているといえる。
*2:本当にそういえるだろうか? 見たくないもの、聞きたくないものが、脳レベルで知覚できてしまう状態に陥ることは、きつい体験ではないだろうか?
*3:堂々としていればいいというものでもないが…。
*4:さまざまな物語を次々に提示し、それに客がくらいつくのを待っているかのような動き。「自分のリアル」などひたすら無視し、なんらかの物語で客を首尾よく納得させることを常に念頭においたような動き
*5:私はユタに多くを求めすぎているだろうか? 医者なら人体のすべての構造と仕組みを理解しているはずと期待するように、私はユタに超人的な能力を期待しすぎているだろうか?
*6:ベイトソンの『精神と自然』における、プレローマとクレアトゥーラに関する議論を読み返したほうがいいかも。
*7:とはいえ本物には本物なりの危険さがある。「あなたに憑依している霊の力は強大だからそれなりの祈りが必要だ。拝み代は100万円です。助かりたければ払ってください。」と、いくら本気で本物がお客に伝えるとしても、100万は高いよと思う。5000円ぐらいでなんとかしてくれと思う。そして本物ならば本物らしく、お客の病気なり悩みなどを確実に改善してほしいと思う。プロは自分の仕事に責任を持ってほしい。
*8:つまり、本物とは「霊や神の存在を脳レベルでリアルに知覚している人」のことを指す。「霊や神の存在を脳レベルでリアルに知覚している人」という着想の妥当性を、私は、知覚心理学者の下條信輔氏による『意識とは何だろうか』を読むことによって確信した。「分裂病患者における幻覚、幻聴」に関し下條氏は次のように述べている。「これはふつうに考えると、またわれわれの分類からいっても、錯誤の部類に入るでしょう。少なくとも「正常」ではないことは確かです。しかし脳の中に分け入ってみると、むしろ「当然」の神経活動が見つかることが多いようです。つまりものや像が見え、音が聞こえるという当然の神経活動が見られるのです。たとえば幻覚が見えるときには視覚皮質に活動水準の上昇がみられ、幻聴の聞こえるときには聴覚皮質に上昇がみられることを示す証拠があります。(中略) たとえば次のようなケースを想像してみて下さい。ある患者が、「自分は毎夜宇宙人と交信している」「先祖と交信した」「教祖とテレパシーで交信している」などと主張したとします。これらは妄想型の分裂病やパラノイア症状を示す患者に典型的な妄想です。こういう場合にきわめてありそうなのは、健常者が相手と面して会話したり、電話で話したりしているときと同様の神経活動が記録されることです。つまり健常者と同じ知覚、思考、発声などにかかわる神経活動があり、その結果として「正常に」交信が認知された可能性が高いのです。なぜこのようなことがありそうかといえば、彼ら患者にしても、現実に人と会話しているときには、大部分の時間は健常者と同じように会話を知覚しており、それは健常者と同じ神経過程に支えられているはずだからです。ここでも「外界に声がないのに神経活動が生じてしまった」という全体の経過は異常かもしれませんが、その異常な知覚体験を直接もたらした神経メカニズムそのものを、ただちに「異常」と決めつけることはできません。(下條 1999:72-74)」
*9:霊能者の脳を実験室で調べたら分かるのではないか? 霊能者が脳レベルでちゃんと霊や神の姿や声を知覚しているかどうかを、脳の神経活動に注目することによって判断するのである。しかしたとえこの方法が有効だとしても、経費と手間がかかりそうなので非現実的だ。人類学者にできることは、脳を調べることではなく、語りを採集し整理することであろう。脳の領域は脳科学者に任せたほうがいい。しかしどうしても脳の神経活動も研究の視野に入れたいならば、脳科学者と人類者からなる研究チームを作って共同研究をしたらよい。
*10:傍にいた人類学者がムガンガの現地語を訳してくれた。