大杉高司 2006 「映画『Intervista』と人類学」『ポスト・ユートピアの民族誌』131-135
秩序への埋没と距離化の同時性(二重性)を、人類学をはじめとする社会科学はどのように記述できるのか(大杉 2006:133-134)。
秩序への埋没については、古典的な構造機能主義から、ギアツ流の解釈学、さらに近年ではサールの構成的規則論を援用する立場が、理論化をこころみてきました。一方、距離化の理論としては、方法論的個人主義や道具主義的な文化の捉え方、さらに近年では文化の客体化論や、象徴的抵抗論と呼ばれる理論をあげることができるでしょう。しかしながら、どちらの潮流も、映画が示しているような埋没と距離化の同時性あるいは二重性を理論化できていないようにみえますし、また両潮流の理論を折衷しようにも、双方が互いに排他的に対立してきた事情があります。この同時性や二重性をある程度捉えられるかもしれない理論の候補として、フロイトのフェティシズム論を継承するいくつかの立場がありますが、それらも理論と呼ぶにはいまだ萌芽的な段階にあります。こうしてみると、秩序への埋没と距離化の同時性(二重性)という現実に対して、人類学を含めた社会科学の諸理論は、未だお手上げといっても良いような状況にあるといえるでしょう(ibid 13)。
ところが、人類学者が伝統的に維持してきた(とされる)研究対象との特殊な関係のあり方を振り返ってみるならば、実はこの埋没と距離化の同時性(二重性)は、決して私たちに馴染みのないものではないことが分かります。ここでは、「参与観察」と呼ばれる人類学の方法論に触れておくだけで十分でしょう。(中略) すくなくともそこで前提とされてきたのが、参与の名に値する対象社会への没入と、観察を可能にする条件としてのそこからの距離化の同時達成であったのは、間違いないでしょう。つまり人類学者は、対象社会のありようとしては想定することも理論化することもしてこなかった埋没と距離化の同時性や二重性を、自分自身が対象社会との間にもつ関係においては当然に成立可能なものとみなしてきたといえます。もっとも、実際には、先の二つの理論的傾向とも絡み合いながら、対象との関係のとり方にも相当な偏差があります。それをいくぶん図式的に整理して言えば、次のように言えるでしょう。対象をアイロニーの欠如で特徴付けるときには、対象との関係でアイロニーが欠如する、と。つまり、構成的規則論を援用する立場に例示されるように、対象社会の人々を規則や秩序へ埋め込まれた存在とみなし、彼らの語りを文字通り(リテラル)に受けとってそこに幾分ものアイロニーを認めないような理論的立場をとる場合には、観察者である自分自身は当然にしてその理論的視野のうちにはふくまれておらず、むしろ彼は対象社会の構成員が決して占めることがない(とされる)高みから、対象社会にアイロニカルな眼差しを注ぐ傾向が強いといえます。他方、文化の客体化論や象徴的抵抗論に例示されるように、対象社会の人々の実践や語りを文字通りには受けとらず、彼らがより重要な目的──経済的利益や政治的抵抗──を達成するためにある種の「決まりごと」をアイロニカルに演じているにすぎないと見なす場合には、対象社会の人々との関係においては、自らとの類似性を過剰に想定し、批判的距離のとれないベタベタの関係に陥ってしまう(あるいはそのような関係が可能であると錯覚する)傾向が強いといえます(ibid 134-135)。
「演技しているようで、していないようで、している」という話(ibid 137)。
おもしろい!!
ふたつの理論的潮流をうまく内包した新たな理論。これを用いれば、今までとは異なる民族誌の書き方(他者の描き方)が可能になるのではないか。
完全に秩序に埋没しているわけでもなく、完全に秩序を距離化しているわけでもない。多くの人々は秩序に対してこのような柔軟な態度を自然にとっているように私には思える。例えばこのような状態は、妖術信仰に関してファブレサーダが引用したマノーニの「そんなことあるはずがない。だがしかし…」という言葉によって、既に表現されてもいると思う。
思うに、秩序に対して人々が取る態度には、以下の5つが考えられると思う(例、妖術信仰)。
1、妖術によって不幸な出来事が引き起こされるなんて全くのナンセンスだ! → 完全否定派
2、妖術によって不幸な出来事は引き起こされる! → 妄信型
3、妖術によって不幸な出来事が引き起こされるなんて全くのナンセンスだ! いやしかし、もしかしたらそういうこともあるかもしれない…。 → 中間派タイプ1
4、妖術によって不幸な出来事は引き起こされる! いやしかし、もしかしたらこのような説明の仕方は間違っているかもしれない…。 → 中間派タイプ2
5、妖術によって不幸な出来事が引き起こされるかどうか私は知らない。周囲の人々はさまざまなことを言うが、私は特にこの話題には関心がない。ただ、周囲の人と歩調を合わさないと集団から浮いてしまう場合があるので、適宜、妖術の効果を信じている人に対しては、信じているようにふるまい、妖術の効果を信じていない人に対しては、自分も信じていないようにふるまって、とりあえず話を適当に合わせておこう。 → 思索中断型合気道的小悪魔派
このうち、1と2は極端という意味において同じような存在である。なぜそこまで確信することができるのか不明だが、両者とも他人の意見に動じることのない人々といえる。次に、3と4。このタイプこそが大部分の人々の態度ではないだろうか。そしてこの3と4の人々が「妖術信仰を受け入れるかどうかについて思索すること」を辞め、周囲に合わせて自らの言動をコントロールするようになったのが5のタイプの人々といえる。
だめだ。大杉先生が問題にしたいことと話がずれてしまっているような気がする。大杉先生が問題にしたいことを私なりに言い換えるならば、「演技くささが生じるメカニズムを明らかにし、秩序に自分自身を首尾よく埋没させることを可能ならしめる条件をさぐりあてること」ではないだろうか? 例えば、目の前にいる素敵な女性に、「好きです」と述べたときに、「ああ。俺は演技をしているのではないか? 本当は好きでもないのに、ただ体だけが目当てなくせに、俺は「好きです」というセリフをしゃあしゃあと喋っているのではないか?」と煩悶しなくてすむ方法を見つけたいのではないだろうか?*1
違う。自他の言動が「ときに演技くさく、ときに本気でしかなく、しかしときにやっぱり嘘くさく」見えてしまう状態を、過不足なく表現できる理論の探求とその定式化。そして、この状態こそが秩序を生きる我々の本来的な姿であることを主張すること。これらの作業が上記では促されているのではないか?
当然、他者の存在がここでは重要になってくるだろう。他者を意識するからこそ、自分の言動に演技くささを、人は感じることができる(と思う)。誰もいない海辺で、自分自身の一挙手一投足に演技くささを感じることははたしてできるだろうか? できない(と思う)。他人がそばにいたり、他人の視線を感じたりしていなければ、演技くささは生じない(と思う)。
逆に、他者に演技くささを感じることは、他者を自己と同一視していることによって可能になる(ような気がする)。自分に演技くささを頻繁に感じる人は、他者にも頻繁に演技くささを感じるのではないか?*2