ブックカバーチャレンジ5日目:洗脳原論

5日目。『洗脳原論』著者:苫米地英人

洗脳原論

洗脳原論

 

これも卒論執筆の際に参照した本です。

オウム真理教信者の脱洗脳という国家プロジェクトに関与した脳機能学者・苫米地英人氏による脱洗脳技術(デプログラミング技術)の解説本です。

卒論で、サクティなる超常的な力に対する臨場感が醸し出される過程を追っていた私は、自身が呪術師達の集団で行っていた瞑想が、大きなカギになっていることに気付いていました。

元々私は、大学3年次に臨床心理ゼミに所属し、催眠の受業で変性意識状態なるものを体験したことがありました。変性意識状態になると、お酒に酔ったように、とても気持ちが良くなります。快楽の塊に浸されるといったらいいでしょうか。何とも言えない多幸感に襲われます。

私は、レンボガン島で呪術師達が治療前に患者とともに行う長時間の瞑想が、変性意識状態を準備するものであることに気付いていました。

しかし、この変性意識状態が、サクティという超常的な力に関する臨場感の創出とどのように関係しているのかか分からず、変性意識状態の扱いに困っていました。

苫米地氏による本書を私は、変性意識状態の取扱いに迷う私に、一つの明確な指針を与えてくれるものと期待して読んだのですが、読んだことで益々混乱しました。

苫米地氏は、「すべての洗脳は、必ず変性意識状態が介在している」と述べ、そのメカニズムをアンカーやトリガーといった催眠用語を用いて説明していくのですが、それらをレンボガン島の民族誌データとどのように絡めたらいいのか見通しがつかず、余計に困りました。

アンカーというのは、現代催眠の大家ミルトン・エリクソン派の療法家達が1930年代から使用している言葉であり、神秘体験の体感状態・至福体験、トラウマによる恐怖などの「記憶情報」を指します。

トリガーというのは、アンカーを引き出すもので、「言葉・歌・マントラ・祈り・くりかえし唱えた文句・カルト用語・ある種の声の調子やリズム」など、ありとあらゆるものがトリガーに成り得ます。

苫米地氏によると、オウム真理教信者には、ヨガで得られた神秘体験・至福体験の記憶が、アンカーとして埋め込まれており、これは、麻原教祖の姿や写真やマントラをトリガーとして、いつでも引き出せるように仕組まれていたそうです。

また、オウム真理教信者には、地獄に関するビデオを長時間視聴させられたり薬物を用いたりして味わわされた恐怖体験が、「疑念」などの言葉をトリガーとして、いつでも引き出せるように仕組まれていたそうです。

本書において苫米地氏は、これらのアンカーとトリガーを取り除く方法を詳細に記述しているのですが、この内容を卒論にどのように生かせばいいのか、私は大いに迷いました。

私の問題感心である臨場感の創出方法と、苫米地氏の脱洗脳実践は、無関係ではなく、同じ領域の話ではあるものの、レンボガン島の治療呪術の現場に移植するには、無理があるように思えました。

フィールドワークで得られたデータを、脱洗脳技術(デプログラミング技術)の語彙で言い換えることに意味を見出せなかったことが、その理由です。途中までは、そのようなことに取り組んでいたのですが、次第に、なにやってんだろう俺、という感覚に私は陥りました。

例えば、涙を流している人について、「脳内のどこそこの神経が発火しそのインパルスが涙腺における活動を〇〇という化学物質を分泌させることで活発化し、、」と記述することに、何の意味があるのでしょうか。機械の動作過程を細かく記述することの虚しさのようなものを、私は感じていたのでした。

憑依現象に関する論文に、「霊に憑依される人間にはカルシウム(ビタミンDだったけ?)が不足している傾向がある」と結論づける論文があると聞いたことがありますが、このような論文に対して「そうだとして、だから何なの?」あるいは「ふーん。で?」という感想しか私は持てません。

何が足りないのか。何がどうつまらないのか。どうして自然科学的な語彙が民族誌には適さないのか。うまく今でも言葉にできないのですが、民族誌データを脳機能科学の語彙で記述する私は、上記の憑依論文について感じるような虚しさを感じていたのでした。

しかし、脳機能科学の語彙を、民族誌に適用するなどという無茶なことをしないのであれば、この本の内容自体は、実際のカルト問題に現実的に対処するための有効な武器になると感じてはおりました。

このように書くと、「では、お前が取り組んでいた民族誌というものは、そもそも一体何の役に立つというのだ?ていうかお前、自分の病を治す方法の探求はどうなった?」という突っ込みが当然のように予想されますが、これについて冷静に熟考してみる余裕がないほど、当時22歳の青二才にとっては、目の前の卒論をとにかく仕上げることが、最優先課題だったのでした(やはり視野が狭すぎです)。