第9回ジェンダーコロキアムの反省と感想

書評とは何か

著書から自分が受け取ったメッセージについて述べることが求められていたことを初めて知りました。勉強になりましたm(_ _)m

努力主義について─努力を強いられている状態とは、どのような状態を指すのか?

「努力主義の話はつまらない」というコメントを上野さんからいただいた。けれども、「躾」と「何らかの努力を強いられること」の境界について話すことを私はつまらないこととは思わない。私は、「子どもにトイレで用をたすことを強いること」と「子どもに勉強を強いること」の違いは紙一重ではないか?というような問いを口にしたかったのだが、もしかしたら伝え方が悪かったのかもしれない。。

デパートとネパール

上野さんが「ネパール」と発言したのを「デパート」と聞き間違えた。

「いじめの被害者」もしくは/かつ「努力を強いられる存在」が「ホームレス」を襲撃するという語りについて

私は下記のような批判を行った。

加害者が事件を犯したあとに、加害者の過去を遡って、「いじめ」に該当する出来事を特定しようとすれば、いくらでも特定することは可能ではないのか? これまで「いじめ」としては経験されていなかった様々な過去の出来事が、突然「いじめ体験」としてありありと加害者に感じられることはないのだろうか? 

しかし、上記のような「物語は事後的にいくらでもつむげるのでは?」という形の批判は、ある何らかの物語に対して、どれぐらい有効な批判となりえるのだろうか。

私の批判に対して、「どの人間にも過去のある時点で感じた感情がある」というリプライを北村さんはしてくださった。

しかし、感情さえも事後的に構築されるということは考えられないだろうか?

うーん。「感情さえも事後的に構築される」という物言いには、さすがに私も違和感を感じる。「そこまで人間の記憶(≒経験)というものは、曖昧でおぼろげで心もとなく、自由自在に作り変えられるものではないだろう。」という思いが私にはある。

「経験は語ることによって形作られる」という考え方は、どこまで正しいのだろうか?

人は誰しも間違いを犯す。by北村

全くその通りだと思います。

今回のジェンコロのレジュメよりも、あんたのブログでの文章が面白かったで! by北村

北村さんに褒められた拙文を下記に引用。褒められると嬉しいものです。

北村さんの著書では、「いじめの被害者」もしくは/かつ「努力することを常に強いられる存在」が、ホームレス襲撃の加害者になりうることが示唆されている。そのため北村さんは、いじめを発生させ、人々に過剰に努力することを強いる「努力主義の蔓延する能力主義的な競争社会」の変革を訴え、変革の第一歩として「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」を立ち上げる。「ホームレス問題の授業」では、北村さんによる「ホームレス襲撃の背景説明」や、「当事者であるホームレスによる体験談」や、「人がホームレスとなるメカニズム」に関する生田さんの講義などが子どもたちに用意されている。しかし私は思う。子どもたちの「自らの欲望や、快・不快の感覚に対する感受性」を研ぎ澄まし、さらに「生きることに対する貪欲さ」を彼らの中に醸成させるほうが手っ取り早いのではないか? いじめに遭ったら「学校はやだ!いじめる奴もやだ!知らないふりをする先生もやだ!」と大声で叫び、学校という場に「絶対に無視できない問題」があることを全力で知らせるような子ども。あるいは「なんで私があんな刑務所みたいなとこにいなければならないのだ。アホくさ。」と、とっとと見切りをつけて学校をサボるような子ども。もしくは「学校や会社に依存しないでも生きていける方法を見つけよう」と自ら考えて行動するような個人事業主的な子ども。その時その瞬間の自らの感情にひたすら敏感で、さらに、ちゃんとくるのか分からない明日よりも確実にきている今日を最も重要視し、そのくせ自らの生活を自ら創造的にデザインしようとするような、より良く生きていくことにひたすら貪欲な子ども。このような子どもを育てる方法を洗練させたほうが、手っ取り早いのではないか? 

いちむらさんと上野さん

いちむらさんが来て下さった。「「屋根がある家に住む生き方」と「そうでない生き方」のうち、あなたはどうして後者を選んだのか?」という上野さんの質問に対して、「家はあります。屋根もあります。」といちむらさんが返答。「そうでない生き方」は、「屋根がある家に住む生き方」と異なるわけではない。「屋根がある家(テントだけど)」があり、かつ、豊かな「人間関係(≒家族関係)」にも恵まれたものである。いちむらさんの話を私はあの場でこのように理解した。

いちむらさんの話を聞き、上野さんは、「屋根や外壁や布団を備えた建物としての家」と、「それに収まるものとしての人間関係(≒家族関係)」という言葉を口に出した。

もっとお二人の対話を聞いてみたかった。