むかつく


会社帰り。

夕日に染まる浅草を、駅へ向かって歩いてく。

今日も自らに課せられた仕事をちゃんとこなした。

私は充実した毎日を送っている。

日々生き生きとしている。

むかつく。

生き生きしている自分にむかつく。

何故むかつくのか。

私は今、「社会人」と呼ばれる存在となって、安心している。

いい気になっている。

「就職してサラリーマン(=「社会人」と呼ばれる存在の一形態)になって、自分の力で生活費を稼ぐことができている」自分に、私は肯定感を感じている。

「自分OK!」とでも言いえるような、安定した境地に私はいる。

それはつまり、こういうことだ。

「就職してサラリーマン(=「社会人」と呼ばれる存在の一形態)になって、自分の力で生活費を稼ぐことができない」人間には価値はない。そんな奴ははやく死ね。社会のゴミだ。とっとと自殺して消えろ。

私は思い込みが激しい。私が犯す思い込みは多岐にわたる。

私はなんらかの命題を真に受けているからこそ、その命題に則した形で喜怒哀楽を感じてしまう。

今回、私が自覚したところの、私を呪縛する言説は、「就職してサラリーマン(=「社会人」と呼ばれる存在の一形態)になって、自分の力で生活費を稼ぐことができる人間は一人前。したがって生きる価値あり。」という言説だった。

これはつまり、「就職してサラリーマン(=「社会人」と呼ばれる存在の一形態)になって、自分の力で生活費を稼ぐことができない人間には価値はない。はやく死ね。とっとと自殺して消えろ。」という言説にも、私が囚われていることを意味する。

私は縛られている。

もちろん、縛られているからこそ、感じることのできる喜びもある。喜ぶこと自体は、とてもいい体験だ。気持ちよいから。

しかし、私には、「自分を呪縛する命題を取捨選択できるようになりたい」という願いがある。

だから、充実感とともに自己肯定感をも抱いている近頃の自分に、腹が立つのである。

シュートしたボールがゴールに突き刺さったのを認めた途端、否応なく歓喜に包まれてしまう、あの、サッカーというゲームのルールを自明視しているからこそ、まさにそのような精神状態に陥っている「ノーテンキな」人物のように私も、「就職してサラリーマン(=「社会人」と呼ばれる存在の一形態)になって、自分の力で生活費を稼ぐことができる人間は一人前。したがって生きる価値あり。」というルールを自明視しているからこそ、今まさに、妙な自己肯定感を、覚えているのである。

サッカーの他にもゲームはあるのに。野球やテニスや剣道もあるのに。私はことさらサッカーに「固執」して、その中で喜怒哀楽を感じさせられているのである。大きな網かごの中にボールが入ったからって、なぜそんなに喜ぶ?

もちろん、私は、「自分を呪縛する命題を取捨選択できない人間はクズだ。」という命題にも縛られているともいえる。

絶えずメタな視点に立っていたいと願う私は、メタな視点をもとうとしない(≒もたない)他者に対して、非常に冷酷である。

なんか無償に腹立つ。

一人前な気分に酔っている自分の、そのあり方に違和感を感じる。

就職口が見つけられなくて、「ホームレス」になってしまってもいいから、私はずっと人類学者のままで、い続けるべきではなかったのか?

私が就職して「社会人」になることを選んだ理由として、次の要因が挙げられる。

研究者として生きていくのに必要な能力を欠いているために、「ホームレス」になってしまうという恐怖。

この恐怖が私を、「社会人」にさせた要因のひとつといえるのである(注1)。

なんか馬鹿みたいなことを書いているなと、つくづく思う。

なんで「超越的な視点」を身に付けなければならんのだ。

「文化」とでも記述できるような檻の中で、普通に淡々と静かに生活している人々に向かって、「目覚めろ」などど、どんな面して言えるのだろう。何様だお前。

たぶん、よっぽど悔しかったのだと思う。

不幸せでみじめな気分に陥ったことがあったからこそ、その当たり前さをなんとかして覆したくて、私は「自分の認識を疑う」という行為に凝った。

そしてそれが習い性になっているのだろう。

「自分の認識を疑う」という行為は、今に至っては、なぜかプラスの価値を付与されてもいる。

私は、「自分の認識を疑う」という行為に、語の正確な意味において「固執」しているのである。

かわいそうな奴だ。

「どこへ行こう?」と叫びたくなるような気分だ。

浅草にはホームレスが多い。

彼らを見るたび、私は自分に腹が立つ。

注1

私を就職活動に参加させた要因は他にも考えられる。

1、失恋(のようなもの) → 失恋(のようなもの)を体験すると、人は今現在の自分自身を否定されたと感じ、今現在のダメな自分を変えるべく、とにかく何か新しい活動に手を出す。何かしなくては自分に変化は起きないと彼は思い込んでいるのである。かくして、失恋(のようなもの)を体験している人は、旅に出たり、免許を取りに行ったり、バイトを始めたり、就職活動に従事したりするのである。

2、引きこもりがちな自分の傾向を治すには、ひたすら閉じこもって研究に没頭していてはいけないと思ったから。 → 今の私は、引きこもりは治す必要はないと思う。徹底的に引きこもって本を浴びるように読んで、面白くてマッドな論文を書けばいいだけのこと。引きこもらないとできない仕事もある。

参考文献

http://genxx.com/blog/archives/000100.html

上記のサイトは、偶然見つけたサイトであるが、このサイトの作者は非常に面白い文章を書く。この人物は人類学を学ぶために修士課程に入ろうと現在は考えているらしい。人類学者になることを目指す彼は「ホームレスになってもかまわない」と述べ、その覚悟の強さを示している。

すごい。私は「ホームレス」になってしまうことを恐れる。その恐れが私をしてサラリーマンになることを選ばしめたともいえるのである。私と上記のサイト管理者はこの点で異なる。私は恐れすぎる。いろいろなものを。

しかし上記のような頭の良くて面白い人物が、人類学を志してくれるのは嬉しい。是非とも人類学者になって、マッドな論文をいっぱい書いてほしい。

今回私が書いた記事は、上記のサイトを読んでしまったからこそ、書いてしまったともいえる。

投稿者 shige : 2004年07月16日 20:44

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コメント

私が浅草の「ホームレス」の人たちを見るときに感じる、あのなんともいえない、厭な感覚はなんなのだろう? どうして私は彼らを軽蔑しているのだろう?(←軽蔑しているのか?)

1、「働く」ことを全然していないように見えるからであろうか?(←「就職する」という行為と、「働く」という行為について、もっと深く考えてみる必要がありそうだ。これらの行為は、いったいどういう行為のことをいうのか?) すなわち、「生きること」に対して一生懸命に努力することを完全に放棄しているように見えるからであろうか? 

2、彼らが発する体臭が物凄く臭いからであろうか? 彼らの服装がきたならしいからであろうか? 

3、それとも、彼らがいつも同じ場所で、死んだような目をして座っているからだろうか? 

沖縄の実家の近くにある、「池田」と呼ばれる地域では、「すさまじい」人物を見かけることができる。

その人物は、眉毛が太く、脚の筋肉が発達しており、いつも黒い服を着た、サムライのような人物なのである。

琉球侍」とでも呼べそうな、その得意な風貌といでたちに、私は畏敬の念を抱いていたのであった。たまに道ですれ違う際には、おもわずこちらから会釈をしてしまうほど、その人物は、威風堂々としており、なぜかいつも自信ありげに笑っているような顔をしていた。

要するに、その人物はめちゃめちゃ格好よかった。

彼は常に、道の真ん中を大またでのしのしと歩く。車がきてもそのまま道の真ん中を歩いている。クラクションをしつこく鳴らされたときにだけ、「分かった分かったごめんごめん」とでも言っているような感じで、バタバタと体をむやみに動かして、道をあけるのである。その姿はとてもコミカルだ。

たいてい彼は、タバコを右手にもっている。顔から飛び出した眉毛。赤黒く焼けた肌。ボロボロに破れた黒い服。そして隆々とした筋肉。これらの特徴をもった彼を私は、一応「乞食(≒ホームレス?)」として認識してはいた。

しかし、彼は、世間でいうような「ホームレス」ではなかったのである。なんかこう。非常にまがまがしかった。エロスがほとばしっていた。胸をはって道の真ん中を歩いていたのである(←迷惑だ)。

高3の夏だった。「池田」付近を歩いていると、左に人の気配を感じた。その方向は木が茂っているはずだった。しかしそこに彼はいた。木の中でうずくまり、紙になにかを書いていた。鉛筆をもって。

彼の存在は、うちの家族の間で、いつも話題だった。父によると彼は、元教師であり、なんらかの事情があって、あのような仙人的な生活をしているとのことだった。父は彼を「池田仙人」と勝手に読んでいた。

また私の友人の家族の間でも、彼は話題になっていた。友人は彼のことを「池田原人」と読んでいた(ように記憶している)。

2年前に沖縄に帰省した際に、私は彼を「池田」で見かけた。

修士論文どうしよう」とうだうだ考えながら、池田から首里にぬける道路を歩いていると、前方から黒いものがこちらに近づいてくる。「池田仙人だ!」 道の真ん中を歩く彼の後ろを、車が3台、スピードを落としつつ、ゆっくりと走っていた(←迷惑だ)。

池田仙人と私はすれ違った。

池田仙人は相変わらず逞しかった。振り向きざまに見た彼の足の筋肉は、やはりはっていた。非常に気になる人物だ。

私は彼を小学生の頃から知っている。6歳の頃から知っている。そして私が24際のときにも、彼は変わることなく、黒っぽいままで堂々と道の真ん中を胸をはって歩いていたのである。

今でも池田仙人は、ちゃんと生きているだろうか? 胸をはって「池田」付近の道の真ん中を歩いているだろうか?

池田仙人には、「ホームレス」という言葉は似合わない。池田仙人は池田仙人だ。

しかし私が浅草で見かける人々は、「ホームレス」という言葉がしっくりくる。彼らの多くは、ひっそりと死んだような目をして、じっと座っている。時折異臭を放ちつつ(そういえば池田仙人は匂わなかった。何故だ?。私が彼を過度に理想化しているからだろうか?)。

私はなにも「ホームレス」に対して、嫌悪感を覚えているのではないのかもしれない。

あくまでも、特定の特徴を備えた個人に対して、私は嫌悪感を覚えているのかもしれない。

「ホームレス」であるということが、私がその人を軽蔑する理由なのではなく、その人物が「死んだ」表情をしているということが、私が彼を軽蔑し、彼に嫌悪感を覚える理由なのかもしれない。

同じような感覚を私は、リストカットしている人たちや、引きこもりをしている人たちにも感じることがあると思う。

「怒りはないのか?」「叫びたくはないのか?」「自分をこんな状態にさせた何かを殴り倒したくはないのか?」と、「死んだ」表情をしている人たちに、私は問いかけたくなる。

しかし本当に私は、その個人が「死んだ」表情をしているという理由で、ある特定の「ホームレス」に、厭な感じを受けるのであろうか?

「ホームレス」とか、「リストカッター」とか、「引きこもり」とか、「フリーター(=プータロー)」とか、「オタク」とかいう名前を張り付け、貶められてしかるべき、卑下されてしかるべき無価値な存在として、自分自身を理解するように促す謎の圧力に、私は吐き気を催すほど怒りを感じる。

しかし何を隠そう当の私自身が、「ホームレス」や「リストカッター」や「引きこもり」や「フリーター(=プータロー)」や「オタク」に対して、プラスの属性を見出すことができていない。これらのカテゴリー名を耳にしたならば、私はマイナスの属性をまっさきに感じてしまうのである。

そういう自分に私はむかついている。

(1)その個人が「ホームレス」や「引きこもり」といった、明らかにマイナス的な価値を付与されたカテゴリー名を持つような人物だから(これらのカテゴリー名は、「働いていない」という特徴をもつ人物をそのメンバーとしている)。

(2)その個人の姿がきたならしいうえに、その匂いがきついから。

(3)その個人が「死んだ」顔をしているから。自信なさげで生きる気力をすっかり欠いてしまっているように見えるから。

(4)その個人が、上記の(1)と(3)を満たしているような人物だから。

私は、その個人に厭な感じを覚えるのだろうか?

「ホームレス」というカテゴリー名を用いることによって、自らが念頭にしている「ホームレス」という対象を、自ら進んで大衆の中から発見し抽出し、彼らが備えている「死んだ顔」や「無気力」といった特徴を過度にクローズアップするような仕方で、彼らを見つめてしまっている私自身の認識のあり方に、問題があることは言うまでもない。

昨日、近所の図書館に行って、上記のことについて考えながら本棚を徘徊していたら、面白そうな本に出会った。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4380972798/qid%3D1090205807/250-3350454-3809050

私が現在考えていることとこの本は、何か関係しているように思える。

時間があるときに読んでみようと思う。

投稿者 shige : 2004年07月19日 12:01

むかつきますね

投稿者 だいすけ : 2004年09月17日 15:11

むかつきます。

すべからく反抗します。

投稿者 shige : 2004年09月17日 23:56

Thanks

投稿者 Twink : 2004年09月24日 01:54

Are you kidding?

投稿者 shige : 2004年09月25日 01:01

Just reading up on some of this lately, was interesting.

投稿者 girl playboy : 2004年11月03日 16:56

翻訳してみます。

「最近これについていくつか調べたんだけど、面白かったよ」

私による上記の翻訳は正しいだろうか?

翻訳のことはともかく、girl playboyが貼ってくれたリンクをさっそくクリックしてみました。

しかしリンクが切れていました。

複雑な心境になったので、girl playboyIPアドレスを下記のサイトに入力し、どこからあなたが私のサイトに書き込んだのか調べてみました。

http://www.arearesearch.co.jp/ip-kensaku.html

結果は次のようになりました。

IPアドレス 69.193.88.30
ホスト名 CPE000c4145b84b-CM0011aea4b4fa.cpe.net.cable.rogers.com
IPアドレス割当国 カナダ (CA)

カナダに存在するPCから書き込んでいるということなのかな?

そういえば、この前書き込んでくれたTwinkという人も、カナダから書き込んでいました。

IPアドレス 69.193.101.102
ホスト名 CPE000c4173cd1d-CM00080d547e4c.cpe.net.cable.rogers.com
IPアドレス割当国 カナダ (CA)

girl playboyTwinkは、同一人物なのかな?

それとも、同じ組織で働く同僚なのかな?

投稿者 shige : 2004年11月03日 22:15

Gracis amigo

投稿者 Lorren : 2004年12月09日 09:35

amigo!

I like MONICA !!(やけくそ)

投稿者 shige : 2004年12月09日 21:25

単なるアダルトサイトの宣伝じゃないか…。削除しようよ。紛らわしい。

投稿者 miirakansu : 2004年12月12日 12:25

誰かに張られたアダルトサイトのリンクを「削除」したり、それに対して「警告」したりすることは、ありきたりな反応なので、ちょっと変化をもたせたかったのです。

さらに言うならば、もっと風変わりで趣深くて、書き込んだ人の「世界に対する認識のありよう」をがらっと変化させてしまうような返答を、行ってみたかったのです。

とはいえ、上記の試みは見事に失敗していますが。

また、次のような疑問ももっていました。アダルトサイトの書き込みはどうして削除されるのだろうか、と。アダルトサイトのリンクの張り込みが、削除されてしかるべきものとして受け取られる理由について、深く考えてみたくなりました。

正直に白状しますと、私はほとんど毎日オナニーをしています。その際、ネット上で見つけることができるHな動画や画像をおかずにしています。つまり私は、アダルトサイトにむちゃくちゃお世話になっているわけです。それなのに、アダルトサイトのリンクが自分のサイトに張られたら、それをとっとと削除してもいいのでしょうか?

なんか、違和感を感じませんか?

しかし、なんの挨拶もせずに、リンクだけ貼ってしまう人に私は抵抗を感じます。

たとえば、いきなり前から人が歩いてきて、すれ違いざまに私の手のひらに1万円を握らせたあと、ものすごい速さで走り去っていったとしましょう。

お金を手に入れることができたので私は確かに嬉しいです。しかし、同時に抵抗を感じます。

アダルトサイトのリンクを貼られることも、似たような違和感を私に感じさせます。

なぜ、アダルトサイトのリンクを貼る必要があるのが、ちゃんと説明してから、貼って欲しいです。理由を説明してほしいのです。コミュニケーションを面倒ぐさがらないで欲しいのです。

本気でそう思います。

投稿者 shige : 2004年12月13日 23:06

知らない間に入れられてるポストのチラシみたいなものじゃないのだろうか。知り合いからの手紙なら返信を書くけど、用のないチラシはゴミ箱に捨てる。

投稿者 miirakansu : 2004年12月14日 19:08

私は、オナニーすることに対して、引け目を感じているのかもしれません。というよりも、ネット上にあるHな動画や画像を利用することに、罪の意識を感じているのかもしれません。

だからこそ、アダルトサイトのリンクが自分のサイトに貼られたときに、それを「知らない間に入れられてるポストのチラシ」として、とっとと削除する(=捨てる)ことができないのだと思います。

また、次のようにも考えられます。

セックスや性に関する話題を大部分の人は好みます。多くの人が、セックスや性に対してとても関心を持っています。しかし、ほとんどの人はそれをおおっぴらにしません。あたかもそんなに関心がないようなそぶりを見せます。

実は、なによりも私がそうです。

どうして自分はセックスや性の話題について「自分」を主語にしておおっぴらに堂々と語ることができないのか。このことに私は疑問を持っています。

そこで、わざと故意にセックスや性の話題を表に出したりしております。

しかし、まだ分かりません。

なぜ私は、セックスや性の話題を、「自分」を主語にして語ることに、抵抗があるのか?

投稿者 shige : 2004年12月17日 07:48

話がややこしくなってきたのでちょっと整理。

1、アダルトサイトのリンクが重森のサイトに貼られた。
2、重森はその書き込みを不愉快に思った(=削除したいと思った)。
3、しかし重森はアダルトサイトのリンクが張られたことに対して、どうして自分は不愉快な気分になったのか不思議に思った。
4、重森はその原因を考えた。考えた結果、以下に述べるような複数の原因を思いつくことができた。
 ①セックスや性の話題をおおっぴらに語ることを許さないような風潮に、自分は知らず知らずのうちに乗ってしまっているから(そうであるならば、なぜ、セックスや性の話題をおおっぴらに語ることを抑圧するような風潮が存在しているのか?)。
 ②リンクを貼った人に、コミュニケーションをしようという姿勢を、感じることができなかったから。

また、重森は普段から、「なに?そうくるか?」と相手が驚くような、面白い反応をしたいと考えているので、今回のようなアダルトサイトのリンクの書き込みに対しても、同様の態度で接したといえる