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宇多田さんの歌

気になる人 音楽

宇多田さんの歌には、確かに最近、妙に圧倒される。おぞましいものを感じる。

例えば、次の曲は、宇多田さんのスケールの大きさを感じさせる。

全体的な印象は「寂しそう」というものだ。

しかし宇宙から地球を眺めているような視点を持ちつつ、そこはかとなく寂しさを感じるままに享受しているような、安定した精神状態を感じさせる。

なんだか悟った人みたいで、格好いい。

次の曲は謎に満ちている。

最初この曲の出だしを聞いたときは、誰だろうこの人は?と思った。宇多田さんだと知って驚いた。今までとは雰囲気がガラッと変わってしまったように思う。

ビデオクリップを見てみる。これは犠牲に関する歌なのだろうか。いつも誰かの犠牲のもとに自分の幸せは成り立っている。このことに関する歌なのだろうか。

ビデオクリップには、「気味の悪い規定構造」がみてとれる。

「気味の悪い規定構造」を説明する前に、ビデオクリップの内容を時系列的に追ってみる。

女の子が二人いる。 → 成長した女の子(以下キャサリンと呼ぶ)の1人が、恋人の男性(以下スキンヘッドと呼ぶ)と一緒にレストランで過ごしている。 → もう一人の女の子は宇多田さんであり、常に彼女はキャサリンのそばにいる。→ スキンヘッドはキャサリンと一夜を過ごすも、銃のイメージ(=誰かを殺すイメージ)(←夢?それとも回想?)に苛まれる。いたたまれなくなったスキンヘッドはキャサリンを置いてボクシングジムに向かう。 → 黙って部屋から出て行ったスキンヘッドを追いかけて、キャサリンも部屋を出る。 → キャサリンの代わりに、宇多田さんが車にひかれる。 → その頃スキンヘッドは、泣き叫びつつサンドバックを叩く。

なんというか。そもそも、銃のイメージ(=誰かを殺すイメージ)をスキンヘッドが見てしまったことが、宇多田さんの死を引き起こしているのである。

もしもスキンヘッドが、銃のイメージ(=誰かを殺すイメージ)を見ないならば、宇多田さんはひかれなくてすむということである。「銃のイメージ(=誰かを殺すイメージ)(夢とも回想といえる)」を見たからこそ、スキンヘッドはボクシングジムへ向かう。そして、そのスキンヘッドを追っかけてキャサリンが外に出る。そして、そのキャサリンの代わりに、宇多田さんが車にひかれてしまうのだ。

ここで、「気味の悪い規定構造」について説明したい。

いままで見てきたように、スキンヘッドが宇多田さんの死を引き起こす原因になっていることは明白である。

さらに言うならば、スキンヘッドは、未来に自分が犯す罪に対して罪悪感を、未来からすれば過去である現在において感じているといえる。そしてそのことが、実際に罪を引き起こす。まだ犯していない罪に苛まれるという妙な状態にスキンヘッドは置かれており、やがてこのこと自体が実際に罪を現実化させているといえるのである。

スキンヘッドは、自分自身が、宇多田さんが車にひかれる原因であることをなぜか昔から自覚しており、だからこそ銃のイメージ(=誰かを殺すイメージ)に苛まれる。しかし苛まれた結果、スキンヘッドがボクシングジムに行くからこそ、宇多田さんは車にひかれてしまうのだ。スキンヘッドはこの抜け出せない無限ループの中で永遠に苦しむしかないようにみえる。

私は、予知夢や正夢といった類の話をしているのではない。

「未来における宇多田さんの死という出来事が、過去におけるスキンヘッドの行動(ボクシングジムへ向かうこと)を規定し、かつ、過去におけるスキンヘッドの行動(ボクシングジムへ向かうこと)が未来における宇多田さんの死を規定している」という「気味の悪い規定構造」を、私は指摘したいのである。

これは、夢で見た通りの出来事が未来において生じるという類の話ではない。

未来に起きる宇多田さんの死という出来事を引き起こす原因として、スキンヘッドは現在の自分を捉えている。そしてこのことに起因する罪悪感に耐え切れないからこそ、彼はボクシングジムを目指す。ところが、スキンヘッドによるこの行動こそが、宇多田さんの死を引き起こしてしまうのである。

未来過去相互規定的構造とでも呼べるような状況である。この気味の悪い規定構造を用意することにより、「知りながらなにもできない」「分かってはいるのだがどうすることもできない」とでもいうような、どうしようもなさを、このビデオクリップは伝えているのではないだろうか?*1

  1. 時折登場する小さな男の子は、スキンヘッドにとっての宇多田的存在のように思える。キャサリンの幸せの背後に宇多田さんという他者が配置されているように、スキンヘッドの幸せの背後にあの小さな男の子が置かれているのかもしれない。
  2. 最後のほうで、キャサリンの膝に仰向けに横たわるスキンヘッドの映像が現れる。このときの彼の顔の表情は安らかだ。この場面は、キャサリンとスキンヘッドが一夜を過ごす場面だ。罪の意識に晒されながらも、スキンヘッドはもはやボクシングジムには向かわない。もしかしたら、こういう選択もありえたということだろうか? それとも、今までの映像はすべて、キャサリンの膝に横たわるスキンヘッドの夢というオチなのだろうか?

*1:車にひかれた宇多田さんは、キャサリン以外の人間には見えないようだ。宇多田さんは最初から存在しない存在ということだろうか。しかしそれならばなぜ、キャサリンの幼少期の場面には、ショートカットの女の子が頻繁に登場するのだろう? これが宇多田さんではないのか? 宇多田さんは実在していたのだろうか? ビデオクリップにおいて宇多田さんは、生きているのか死んでいるのか分からない、幽霊のような存在として終始描かれる。これはやはりこういうことなのだろうか。不在としか感じられないが幸福な自己の背後に確実にいるであろう不幸な他者の存在にいつも敏感であれ。自分の幸運と引き換えに不幸となる目立たぬ他者を常に意識せよ。このようなメッセージがこの歌には込められているのだろうか?