今日の活動

土日は、以下のことをした。

  1. 洗濯
  2. コンソメと白菜と鶏肉の鍋作り
  3. 掃除機かけ
  4. 排水溝の掃除
  5. 京極夏彦の『魍魎の匣』読了
  6. 京極夏彦の『狂骨の夢』読書開始
  7. 茂木健一郎の『脳と仮想』速読
  8. レヴィストロースの『サンタクロースの秘密』速読
  9. 宮台真司の『制服少女たちの選択―After 10 Years (文庫) 』速読

以下、順番に詳述していきたい。

洗濯

一週間のあいだにたまった衣服を洗濯。金曜の夕方に洗濯機を回しておき、その夜に干せば、土曜の朝に惰眠をむさぼれます。

コンソメと白菜と鶏肉の鍋作り

簡単に作れるうえに味もおいしい。ついでに部屋も暖まる。まさに一石三鳥な料理。最後に雑炊も楽しめる点も非常に嬉しい。この料理は、一松という国立にある某飲み屋でラーニングしたものである。

掃除機かけ

髪が多い。髪が抜け、それを掃除機で吸い、また髪が抜け、それを掃除機で吸い…という無限ループ。今日もその営みを遂行*1

排水溝の掃除

近所の雑貨屋で手に入れた強力排水溝用洗剤で気になるニオイとヨゴレを除去。そのかわり部屋中が塩素臭くなり、図書館に逃げ込むことを余儀なくされる。人生万事塞翁が馬な予感。

京極夏彦の『魍魎の匣』読了

図書館はやっぱり落ち着く。机に座り、一人黙々と『魍魎の匣』に取り組む。かなしい話だった。事件の特徴、現象の有様に付けられる名前が、妖怪の名前なのだろう。今回京極堂たちが遭遇した事件は、まさに魍魎とラベリングしてしかるべきものであった。マトリックスを彷彿とさせるラストの対話場面にやや興奮。しかし久保さんの頑張りによりあっけなく幕が閉じたのでちょっと肩透かし。それと、殺人を「通り魔」で説明するのはいかがなものか。

京極夏彦の『狂骨の夢』読書開始

いさま屋はどうなるんだー!! いさま屋が心配だ。「河豚よさらば」と私も呟いてみたい。

茂木健一郎の『脳と仮想』速読

サンタについて考えようと思い、軽く目を通す。「子どもはサンタがいるとは本当は思っていない」という茂木さんの記述に驚く。なぜ子どもの主観を、茂木さんは代弁できるのだろうか? 「サンタはいる」と子どもは考えているのではないか? 「サンタは本当は存在しないのだけど仮想だからこそ切実な存在足りている」わけではないのではないか? 

レヴィストロースの『サンタクロースの秘密』速読

図書館になかったので、思い切って池袋のジュンク堂に移動。東京という町自体が、大きな図書館のようなものなので、本好きな私は幸せ。

中沢さんの解説付き。贈与。サンタをめぐる現象を、確かに贈与行為としてラベリングすることは可能だ。しかし、それよりも私は、サンタはいるのかどうかについて、当事者の大人と子どもがどう考えているのか、あるいは、この問題に対して子どもがどのように自らのスタンスを変えていくのか、そして、そのこと自体をどう捉えているのかが知りたかった。大人は「サンタなんかいないんだけどね」と思いつつ、子どもに「サンタさんがくるよ!」と語り、子どもは「サンタがくる!」と素朴に喜ぶ。この幸福な関係、この幸福な状態。これはいつか終わる。このことについて、もっと分析して欲しかった。すなわち「子どもはいつどのようにして「本当はサンタはいないこと」を知るのか?そしてこのことを子どもはどう受け止めるのか?そしてどうして子どもは大人になったときに自らの子どもにサンタの実在を信じ込ませるような語りを吹き込むのか?このとき、かつて「サンタはいる」と素朴にとらえていた、今は大人であるところの子どもは、過去の自分と現在の自分の、サンタに対するスタンスについてどのように考えているのか?あるいは、そんなメタな視点は持ち合わせていないのか?」について分析して欲しかった。もちろん、サンタをめぐる現象を贈与という言葉で説明することは可能だし、ある程度それは有効だと思う。実際にそのような現象としてサンタをめぐるモノと人の動きを眺めることはできる。しかし、私はそのような語り方ではなく、あくまでもリアリティにこだわりたい。「サンタはいる」という確信あるいは現実感をキーワードにして、この現象について語りたい。

宮台真司の『制服少女たちの選択―After 10 Years (文庫) 』

圓田さんとの対談が面白かった。援助交際をしていた女の子たちは、その多くが結局傷ついたこと。宮台さんが援助交際の自由を擁護しようとしまいと、結局女の子たちは傷つくしかなかったこと。むしろ、援助交際を宮台さんが問題化したことによって、行政や学校側がそれを取り締まる政策をガンガン打ち出し、かえってそのことによって女の子たちが援助交際に向かわざるをえない環境が整い、結局彼女たちは傷つくしかなかった(その多くはメンヘラーになった)という、「研究者の介入による観察対象の変化」すなわち「観測問題」あるいは「マッチポンプ現象」が気になった。宮台さんは「これは仕方がない。研究する上では避けられないことだ」と言う*2。確かにそうだと思う。すべてを予測することは不可能だ。でも、自分の行為が誰かを不幸にすることに関わっていたことを自ら認めることは、つらいことではないかと思う。

また、援助交際をしている女の子の類型に関して、圓田さんと宮台さんの印象が一致しないことが興味深かった。どうも、圓田さんがインタビューする女の子はAC系が多いらしい。なんでだろう。調査地の違いだろうか? あるいは、観察者によって、同じ観察対象が、別々のものに見えるということだろうか? それとも、同じ観察対象が、観察者ごとに、異なる対応をしているということだろうか?

*1:とはいえその規模は年々縮小されていくはず。

*2:宮台さんは「マッチポンプ現象」の責任を感じているようであるが、私は疑問に思うことがある。「マッチポンプ現象」が起きたことを裏付ける実証的な証拠がここでは提示されていないように思う。宮台さんが援助交際を問題化したことによって、援交少女の数が実際に増加したのならば、「マッチポンプ現象」を指摘することは適切であろう。宮台さんが援助交際を問題化する以前よりも、宮台さんが援助交際を問題化した後に、援交少女の実数が増加したのならば、「宮台さんによる援助交際の問題化」が、「少女が援助交際するという現象」を引き起こす原因のひとつとして捉えられても、さしたる違和感はない。しかし、宮台さんが援助交際を問題化した後に、援交少女の数が実際に増加したかどうかが実証的に把握されていないならば、「マッチポンプ現象」を指摘することは不適切であろう。「マッチポンプ現象」を指摘したいのならば、「宮台さんによる援助交際の問題化」という因子が、少女が援助交際するという現象にとって、どれほどの影響力を有しているのかが納得いく形で説明されるべきではないだろうか? 本書においてはそれが全くなされていないように思う。「宮台さんによる援助交際の問題化」は、厳密な検証作業ぬきに、少女が援助交際をするという現象を引き起こした原因のひとつとして語られてはいまいか? 私は、援助交際という現象を説明する際に、「宮台さんマッチポンプ説」は、あくまで物語のレベルにおいてのみ、なんらかの因果関係を仮説的に提示してみるという意味においてのみ、価値があるように思う。「宮台さんマッチポンプ説」を我々は、事実としてではなく、あくまで仮説として受け取るべきではないだろうか?