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「事業仕分け」と「役に立つ人類学」に対する不安

人類学

京都大学文化人類学関係者の方々から、事業仕分けへの異議申し立てが行われた。

行政刷新会議事業仕分けに関する見解と要望

政府が事業仕分けにより予算を削減しようとしている科学研究費補助金。これのお世話になっている友人や先輩が私には何人かいるため、今回の事業仕分けの結果、彼らの生活がどうなってしまうのかとても心配である。

そもそも日本の大学や大学院の学費は高いと思う。例えば私は修士の頃、半年につき25万円もの学費を大学に払っていた。年間50万である。そして学費は年々値上がりしていたと記憶している。学費が1万円ぐらいであれば、残りのお金を生活費や研究費に回すことができるのにと何度思ったことだろうか*1

10月頃、セーフティーネット・クライシス vol.3 しのびよる貧困 子どもを救えるかという番組を見た。そこでは貧困により教育を断念せざるを得ない日本の子ども達の現状が報告されていた。そしてこのような状況を解決するために参考とすべき一つのモデルとしてフィンランドの教育政策が紹介されていた(下記の52:42頃を参照のこと)。

http://veohdownload.blog37.fc2.com/blog-entry-3071.html

フィンランドでは大学までの学費が無料だという。1990年代、金融危機や、最大の貿易相手国であったソ連の崩壊の余波を受けて不況に陥ったフィンランドが採った政策は、教育予算のカットではなく、むしろ倍増であった。このような教育への公的支出は、(1)「教育を受ける機会を奪われた人々が将来無職となることにより生じる生活保護費増大の回避」と、(2)「将来のフィンランドにおける情報産業の成長・活性化」を見据えての、戦略的なものであった。

結果はどうなったか。現在フィンランドは、NOKIAなどの世界的な携帯ブランドに代表される情報技術産業国であり、手厚い福祉制度を備えた豊かな国として知られている。

フィンランドという成功例が存在しているのであるなら、日本政府も教育にお金をかけてはどうだろうか?

科学研究費補助金を削るのであれば、せめて、大学や大学院等の学費を無料にしてはくれないだろうか?

日本の大学や大学院の学費は高く、さらに、博士課程を卒業しても研究職に就ける確率は低い。今回の事業仕分けにより、多くの若手の研究者達がダメージを受けることは目に見えている。京都大学文化人類学関係者の方々から事業仕分けへの異議申し立てが行われるのは非常に納得できる。

しかし私は下記のような文章を読み、少しだけ不安を感じた。

例えば、わたしたちの専攻する文化人類学は、机上の理論からは明らかにならない、現場における問題を発見し、社会に向けて問題提起してきました。そのうえで、開発支援や国際協力をより効果的に進め、当事者の経験や目線を重視しながら、文化摩擦や紛争に対する解決策も提示してきました。文化人類学に限らず、人文・社会科学の究極の意義とは、わたしたちがよりよい社会を築いていくための新たな価値観を創出し、それへの道筋を提示することです。その営みは必然的に、現在の理解や認識のあり方への鋭い批判を含んでいます。そして、今日のわが国が立脚する根本思想たる「自由と民主主義」もまた、このような批判精神のもとで形成されてきたことを決して忘れてはなりません。

私は人類学が「役に立つこと」を己の存在意義として主張し始めることに不安を感じる。

「役に立つ文化人類学的研究」を全面的に打ち出すことにより、「役に立たない研究」は抹殺してもよいというロジックを自ら展開させてしまうことにはならないだろうか? 役に立たないものは存在してはいけない。結果としてこのような考え方に賛同してしまってはいないだろうか?

私にとって人類学は、己の思考自体について思考するような、徹底的に反省的な「科学の科学」とも呼べる学問である。物事を懐疑することは、どのような学問分野でも行われることであるが、私の好きな人類学は、懐疑の仕方にさえ懐疑の眼差しを向けるような、ある種病的な趣を備えた学問である。

聞くところによればデリダという哲学者は脱構築という言葉で、二項対立自体を疑うということを提唱していたらしいが、人類学も負けず劣らず、あらゆる自明の枠組みを疑いまくる学問である。「男/女」や「大人/子ども」等のお馴染みの二項対立だけでなく、「役に立つ/役に立たない」という二項対立にも懐疑的な学問である。

その人類学が外に向かって、「人類学は役に立つ研究」とアピールした時、人類学が備えていた何か大切なものが失われてしまうように思う。「何かの役に立つかどうか」という観点からすれば曖昧で境界的で白黒はっきりしていなくて、「一体何やってんの?」と周囲に訝しがられるような研究は「役に立たない」という理由で切り捨てられてもOKとなる素地を、自ら作り出しているような悲しさを感じる。

研究は、やむにやまれずそれこそ、なんらかの問いにとりつかれた人がやるもので、とりつかれた人が自己を治療するかのごとく研究に手を染めている間は、その人が生活に困らないように、手放しでバックアップされて欲しいと単純に思う。例えば、素数の出現パターンが気になって気になって仕方がなくて、誰に頼まれたわけでもなく、周囲に「なに馬鹿なことしてんの?そんなの何の意味もないよ。無駄無駄無駄。」と訝しがられてその面白さや価値を理解されなくても、勝手に素数の研究をせざるを得なかったオイラーのような人を(下記の13:00頃を参照のこと)、国は理由の如何を問わずバックアップして欲しいと思う。

http://veohdownload.blog37.fc2.com/blog-entry-3386.html

結果的に、素数に関するオイラーの業績は、現在のIT社会に欠かせない暗号技術に応用される「役に立つ」研究となったが、もともとオイラーは「IT社会の役に立つこと」を目指して、素数の研究をしていたわけではないはずだ。何が出るかはオイラー自身も分からなかったはずだ。オイラーはとにかく素数の出現パターンが気になって仕方がなかったから勝手にそれを研究していたはず。多くの研究にこのようなギャンブル的な側面があることは否定できないのではないだろうか?

「役に立つこと」を人類学にアピールさせた今回の事業仕分けが憎い。

「役に立つかどうか分からないが、認めて欲しい」という形で、人類学の存在意義を示すことはできないのだろうか?*2

*1:私は修士の頃、育英会から借りたお金で学費を払っていた。足りないときは親の脛をかじって凌いでいた。育英会には現在借金を少しずつ返している。

*2:「そもそも「役に立つ」とはどういうことなのでしょうか? 「役に立つ」を、「何かの役に立つ」と言い換えたとき、「何か」に当てはまる適切なものは、どのようにして決定されるのでしょうか? 「(何かの)役に立つ」ということはどのようにして判断され得るのか分析してみせましょう。これが人類学の存在意義です。」とかいう形でアピールできたら最高なのに。