「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」の感想、あるいは、「自給自足の農家」に対するリスペクト

狩猟採集や農耕に適さないコンクリートだらけの環境では、柳田國男が『明治大正史世相編』で描写したような「自給自足の農家」を復活させることは不可能と考えられる。

柳田が描いたのは、かつては「自給自足」を達成できていた農村が、次第に「モノに対する欲望をその原動力とする資本主義社会」に飲み込まれ、「自給自足」の為に必要不可欠な「モノ作りの技術」が忘れ去られていく近代化のプロセスであった。

例えば、近代化のプロセスにおいて人々は、洒落っ気のない麻の着物(めっちゃ丈夫で長持ち)よりも、何色にも容易に染めることが可能な木綿の服(すぐに痛む)を好みはじめ、麻の着物に関する「モノ作りの技術」を自ら捨て去った。いつしか人々は貨幣と木綿の服とを交換することしかできなくなってしまった。自給自足に不可欠な「モノ作りの技術」のひとつが抜け落ちた瞬間である。

この、失われた「モノ作りの技術」の数々を今一度復活させることはできないだろうか? そのためのリソース(土地、技術取得者、金銭的余裕、精神的余裕、体力)は確保できるのだろうか? まだ間に合うのであろうか?

上記は2006年頃に私が書いた日記の一部である。「自給自足の生活」に救いを求めていることがよく分かる文章である。

当時の私は劣悪な労働環境に身を置いていた。

当時の私は「自分で自分の生活を成り立たせたい。会社とか組織に依存しない形で! 雇用契約抜きの形でっ!!」と怒り狂っていた。

最近、友人に勧められて「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」という漫画を読んだ。2ちゃんねるに投稿されていた文章を漫画にしたものだという。

どうやら映画化もされているらしい。


ざーっと一通り読み、この漫画では次のことが前提とされていることを理解した。

「働くこと」は無条件に「善きこと」であり、ニートよりも会社員のほうが価値が高い。会社員のなかでも「自力で仕事を片付けられるソルジャー」が最も価値が高い。

漫画の主人公が置かれた労働環境は、日本の至るところで見ることのできるものだと思われる。特に、物語の前半で主人公を悩ませる「理不尽なコミュニケーション」は、上下関係の厳しい環境では容易に観察できるものと考えられる。

主人公が遭遇する問題には見覚えがあるものばかりであり、漫画を読み進めていくにつれて私は、自分が会社員1〜3年目だった頃のことを思い出した。

学生の頃の私は、ひたすら「自立」を目指していた。

会社説明会に参加し、筆記試験を解き、複数の面接をクリアして私は、無事内定を勝ち取った。私が初めて就職したのは、社員数100人前後のIT系の中小企業であった。

会社員になることにより私は「自立」を達成することができた。「自立」には様々な定義が存在しているようであるが、私がここでいうところの「自立」とは、「福利厚生・各種保険の整った組織に正社員として所属し、月に20万円ぐらいの給与がもらえるようになること」である。つまりここでの「自立」とはいわゆる「経済的な自立」である。

「自立」を達成するために就職した会社で私は、3年の間に何人もの「鬱病患者」や「鬱病により休職を余儀なくされる者」を見ることになった。そして「自ら命を断つ者」についても知ることになった。

私は疑問に思った。「なんなんだここは?」と。「一体何が起きているのだ?」と。

先輩や上司からことあるごとに言い聞かされる「能力や技能を高めろ。そのために日々努力をしろ。」という助言もしくは説教に激しく違和感を覚えた。

「限界まで努力したからこそ、彼らはああなったのではないか?」という疑念がわいて仕方がなかった。

鬱病や自殺は、「自立」の代償なのだろうか。それだけ「自立」は達成することが困難な課題なのだろうか。高度な能力を持つ人間のみが「自立」を成し遂げられるのであり、能力の低い人間が鬱病や自殺に陥るのであろうか。

そうではないと私は考える。

なぜなら鬱病になる人間や自殺する人間には、能力が高く仕事ができる人間が多いように思えるからである。

真面目で責任感がありそこそこ仕事ができる人間。このような人間が鬱病を患ったり過労死する可能性が高いと私は感じている。

件の漫画でいえば、上原さんのような人物である。

真面目で責任感がある人とはつまり、他人の目を過剰に気にし他人の要求を断ることができない人ということである。他人と交渉することができず、上司や先輩といった力のある人間からの命令にひたすら従順ということである。

「努力すれば何でもできる!」と述べる人間が会社という空間には多いような気がする。

しかしこのような人間は、私が次のような質問をした途端、すぐに前言を微修正し始めるか、逆切れして怒り出すか、無反応を決め込むのであろう。

「では、あなたはその得意の努力とやらで、明日までに、ポアンカレ予想を解くことはできますか? ただし、ペレルマンによるアプローチ以外の方法で。」

ペレルマンという名の数学者は、多くの数学者達を悩ませてきたポアンカレ予想を解いた後、なぜか社会とのつながりを絶ち、母親の年金で引きこもり生活をしているという変わり者である。

現在のペレルマンの状態を見た者は「なんだニートか。」と即決し、あからさまに軽蔑するかもしれないが、ペレルマンニートだと判断した当の人物がたとえ目から血が出るぐらい努力したとしても、ポアンカレ予想を解くという競争においては、ペレルマンを超えることは絶対にできないであろう。睡眠時間を毎日1時間に限定し、起きている間はずっと必死に考え続けたとしても、ポアンカレ予想を解くことは無理であろう。

もちろんペレルマンも努力はしただろう。しかし、他の人間はいくら努力してもポアンカレ予想に正しく答えることは不可能であろう。

ここで私が言いたいことは「能力差は確実に存在する」ということである。努力で超えられる壁は、個々人で異なるのである。

しかし、会社という空間では、上記のような常識が通用しない。

「努力すればあらゆる目標が達成できる」ということが驚くほど素朴に信じられている。無茶なスケジュールを守ることを命じる上司だけでなく、無茶なスケジュールをあてがわれて作業に従事する部下も、この悪しき命題の信奉者であったりする。

「努力すればできる!頑張れ!」という命令にひたすら従順だった仲間達が倒れてきたのを見てきた私にとって、「努力すればあらゆる目標が達成できる」という考え方は敵である。これは、個人の能力や身の丈を無視した、全く理不尽で暴力的な信仰である。

件の漫画の主人公は努力家である。逆境にへこたれず、自力で問題を解決し、仕事をこなしていく。この前向きな姿勢が人々に好感を与えるのであう。それはよく分かる。

しかし、もしもこのことが延々と描かれているだけの漫画であったならば、私はすぐにこの漫画を読むのをやめたであろう。

この漫画では、「努力→成功」というお馴染みのストーリーだけでなく、「メンバーに仕事量をできるだけ均等に分担させるバランス感覚の重要性」や「様々な性格を備えたメンバーをうまく説得し、仕事量の配分が不均衡な状況を改善し、不健康な状態を健全なものへと制御していくテクニックの重要性」が描かれていた。だから私は、冒頭で言及したようなこの漫画の前提に違和感を感じながらも、最後まで漫画を読み進めることができたのである*1

「より良く生きていくこと。」が究極の達成課題であるならば、上司や周囲の目を気にして盲目的に努力してはいけない。絶えず自分自身を自分で俯瞰し、「あ。これ以上働いたら倒れる。倒れないにしても、イライラして周囲に冷たい人間になってしまう。自分の人生をつまらなくしてしまう。」と判断*2できたならば、迷うことなく着実に冷静に、仕事量を減らす工夫をしなければならない。具体的には、自分の担当している仕事の量を減らしてくれるように上司や先輩と交渉しなければならない。

この仕事量を減らすための交渉が決裂した時は、会社側が私を解雇するかもしれないし、たとえ仕事量を減らすことができたとしても、上司との関係が悪化してしまうかもしれない。

しかしこれらのことは特に問題ではない。上司の機嫌が悪くなることや、解雇されることを怖れるあまり、果てしなき努力を続けた結果、自分の生活を自分でみじめなものにし、最悪の場合、鬱病を患ったり、過労死や自殺をする羽目に陥ることを、まずは回避しなくてはならない。「できないことはできません。」と堂々と断り、自分の生活や命を守る。このことが最優先である。

会社員が成し遂げるべき「自立」は、「経済的な自立」ではなく、何よりも「精神的な自立」ではないだろうか。生きていくために、自分の生活をより充実したものとするために、仕事の仕方や仕事量について、果敢に上司や会社側とそのあり方について堂々と交渉できるような精神*3。これが会社員には必要だと私は考える。

欲を言えば、「いざとなったら、自分で自分の食料を、どこの会社や組織にも頼らずにあくまでも自力で作り出してやるさ」と言えるぐらいの度胸も欲しい。

「自給自足の生活」を自分1人で作り出していくことは、会社員として生きていくよりも、はるかに難易度の高い作業であろう。会社には上司や社長等の交渉相手がいるが、農業や漁業に従事して「自給自足の生活」を営む場合、交渉相手は誰もいない。自分で全てを取り仕切り、何をすべきかを決め、作業をこなしていくしかない。

そういう意味では、なんらかの組織に所属していないと何もできない私は、甘ちゃんにすぎない。「自給自足の生活」に救いを求めたこともある私であるが、「精神的な自立」をある程度達成できるのであれば、会社に所属していたほうが無難である。「精神的な自立」を完璧に成し遂げた者だけが、「自給自足の生活」を営むことができるのだと思う。

会社員であろうと自給自足の農家だろうと 2010/3/4 11:42追記

1人で自給自足の生活を営んでいる農家だろうと、自分の頭で考えることを放棄し、既存の手順や常識とやらに盲目的に従い、さらにその結果として生じた災難を、自分以外の何かのせいにするのであれば、「精神的な自立」を達成できているとは言い難いのではないか。

「この世界には自分1人しかいない。だから他人をあてにせず自力で問題を解決していかなければならない。」ということを肝に銘じ、自らが置かれている状況を把握し、その仕組みを解明し、何らかの介入を行う。首相だろうと、大統領だろうと、警官だろうと、弁護士だろうと、大学教授だろうと、上司だろうと、専門家だろうと、先輩だろうと、親だろうと、親友だろうと、恋人だろうと、自分以外の他人の言葉は決して鵜呑みせずにあくまでも参考資料にとどめ、世界をどのように把握するのか、どのようにそれに働きかけるのかは、自分で決定する。そのような仕方で、自分の行動がもたらした結果に対する責任を自分だけが引き受けられるようにする。このような気概を備えた人間が、「精神的な自立」を達成できるのではないだろうか。

上司に言われるままに働いて、鬱病になったり、過労で倒れたり、自殺に追い込まれたりする人も、書店に置いてある有機農業や自然農法の入門書に書かれてあることをただ単に鵜呑みにして農業を行い、失敗して窮地に追い込まれる人も、「自分で考えること」を放棄している点で、存在のあり方としてナイーブすぎる。

今何が起きているのか。何が問題なのか。その問題はどのようなメカニズムのもとで生じているのか。何をすれば問題が発生するメカニズムを制御できるのか。

これらのことについて基本的にゼロから自分1人で考えて生きていく。自分の行動の責任を誰にも丸投げせずに、自分で考えて自分で行動し、その結果を丸ごと自分1人で引き受ける。誰のせいにもしない代わりに、誰からの指図も受けない。おかしいと思ったら、迷わず立ち止まる。ただひたすら人類学者のように、複雑な現象を複雑なままクリアカットに記述して把握し、実験科学者のように、複雑な現象を制御すべくありとあらゆる手段を試して、そのなかから最も効果的な手段を特定する。「精神的な自立」を成し遂げるためには、上記のような活動を繰り返し淡々と基本的に1人で行っていけるような強さが必要だと思われる。

このような強さがあるのであれば、組織に所属していようといまいと、「精神的な自立」は達成できると思う。

「生き残る」という目標のもと、徹底的に状況を利用し、必要があればその内容を変化させるべく貪欲に介入していく。自己責任*4のもと。基本的に1人で。

*1:とはいえ、「中西さんの恋愛」や「井出との新人教育競争」はあまり面白くなかった。

*2:実は、この判断をどのような基準に沿って行えばいいのかはよく分からない。客観的な指標は基本的には一ヶ月の総労働時間になるのであろうが、直感に頼っても問題はないと思う。なぜならこの世の中、常識や文化といかいったものは、長い歳月のもとで多くの人間達が己の存在をかけて交渉してきた結果、暫定的におぼろげながら固定されているように見える、本質的には常に変更可能なものであるから。どのような形のものであっても差し支えないものであるから。このことは、世界中を旅行し、さまざまな常識や文化のもとで生活している人々を目撃することで容易に理解できるであろう。不満に感じたら、遠慮なく文句を言って、周囲の他者と交渉し、どんどん常識や文化の内容を更新していけばいいのである。あまりにもその規模が大きい場合には、この交渉は、革命と呼ばれたりするのかもしれない。

*3:「精神的な自立」をある程度達成した人の中には、仮病を使ったり、常日頃からミスを連発して「あいつには重要な仕事はまかせないようにしたほうがいい」と周囲に判断させることによって、自分に割り当てられる仕事の量を結果的に減らすことに成功している人間もいる。これもこれで生存戦略なのであろう。周囲にとっては迷惑な話である。しかし、周囲も同じように仕事を減らす工夫をすればいいだけの話である。「このような輩が増えると会社が潰れる」と心配する人がいるかもしれないが、会社が潰れても、「精神的な自立」を達成した人であれば、今後も自力で生き続けられるであろう。「精神的な自立」をある程度達成している人ならば、「解雇される可能性を考慮しつつ行動し、その結果をすべて自分で引き受けている」はずである。「とにかく会社がなくなってしまっては困る。会社なしでは何をしていいのか分からない。無茶なスケジュールで仕事をさせられるのは嫌だが、言われたことをただこなしているほうが実は楽。」という態度で会社に所属している人にとっては、このような「精神的な自立」を達成している人は迷惑な存在かもしれない。そういう意味では、会社とは、自分のことを自分で考えたくない人、自分の行為の責任を自分で取りたくない人が、肩を寄せ合って生きている避難所のような場所ともいえるのかもしれない。

*4:ここでの自己責任という言葉は、「自らの行動によって生じた全ての災難を自分1人で受け入れ、その責任を誰にも問わない。」という意味ではない。この定義と内容が重複する部分もあるが、だいたい次のような意味である。「自らの行動によって生じた全ての災難を自分1人で受け入れ、その責任を誰にも問わない。その代わり、自分自身がどのような生き方をするのか、どのような働き方をするのかについても、自分1人で考えて、その内容を自分で決定する。誰のせいにもしない代わりに、誰の指図も受けない。自分で責任を引き受けるために、誰の影響も自分に及ばせない。」 無茶なスケジュールで部下を働かせようとする上司には、自己責任のもと、当然のごとく反発する。上司が切れて「何だと?目上の命令に従えないのか!?」と怒鳴ってきたら、「自分の限界は自分がよく分かります。このような働き方は無茶です。体を壊したくないので拒否します。」と毅然と言い返す。「分かった。お前は今日からクビだ!」と上司が切れたら、「分かりました。不当解雇ということで、しかるべき手段で争いますのでよろしく。」と、状況をひたすら自分にとって好ましいものにするために迷うことなく交渉していく意志を示す。労働組合の助けを借りたにも関わらず、もしも会社側との争いに負けたとしても、協力者を募って、今回の理不尽な出来事を社会問題化していく。本を書いて出版し、印税や講演会料でしのいでいく。いざとなったら遠慮なく生活保護を受給する。そうやって、しぶとくタフに生き延びていく。