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言説(語り)と現実との整合性を検証する方法

物凄く久しぶりの更新です。

2013年の4月から、塾の仕事でいっぱいいっぱいになっておりました。小論文講座やセンター現代文講座、センター英語講座や中学生対象の国語講座の準備で忙しくしておりました。この状態に、さらに小論文や志望動機の添削も重なり、あたふたとそれらと格闘する日々が続き、ブログ更新が全くできておりませんでした。

おまけに、今月から、西原町の新規就農者育成事業に参加し、早朝7時から12時まで農業研修を受けているため、今後ますます時間が取れなくなることが予想されます。

しかし、昨日、琉球新報による下記の記事を読み、発作的に文章を書いてしまう機会がありました。文章は横溢してくる時に書くのが一番だと思っているため、忙しさをしばらく無視し、脳から垂れ流れていくままに、文章を吐き出してみました。滅多に投稿しない、フェイスブックのウォールに、書いた文章だったのですが、せっかく書いたので、ブログに転載しておきます。

大学関係者やメディア関係者は「言説(語り)と現実との整合性の検証方法」をこそ発信するべき

下記の記事を読み、思うところがあったので、ここに記しておきたい。

<金口木舌> 人が住んでいた地

普天間基地にかつて集落があった」という言説も、「普天間基地一帯には誰も住んでいなかった」という言説も、「言葉で語られたこと」という点では、同じである。どちらも「語り」「言説」である。

「人間は言葉で世界の見え方が規定されてしまう生き物」と考えられるので、ネットや本やテレビから得た情報を、若い人がそのまま吸収してしまうことには、私は不思議さを特に感じない。

ただ、「人間は言葉で世界の見え方が規定されてしまう生き物」と考えられるとはいえ、「うそか本当かを見極める技術」あるいは「言説(語り)と現実との整合性を検証するための言葉」ぐらいは身に付けておきたいと思うし、大学関係者やメディア関係者は、これらに関する情報をこそ、広く世間に発信して欲しいと私は期待する。

たとえば、琉球新報の金口木舌の記事では、「普天間基地にかつて集落があった」という言説が「本当のこと」で、「普天間基地一帯には誰も住んでいなかった」という言説は「うそ」ということになっているが、このような判断ができる理由をこそ、記事にして欲しい。

普天間基地一帯には誰も住んでいなかった」という語りの正しさ・正当性を、「言うまでもなく、普天間飛行場は神山や宜野湾、新城などの集落を米軍が接収して造った。戦前は畑や村役場、学校があり、人々の生活の場だった。国の天然記念物の松並木道「宜野湾(じのーん)並松(なんまち)」も通り、先日再現されたように琉球国王が参詣した」という、「普天間基地にかつて集落があった」ということを示す語りを提示することで否定するだけでなく、この語り自体の、証拠としての信憑性・正当性(この語りが信用するに足るものであるとどうしていえるのか)について、力説して欲しい。

つまり、私は何が言いたいのかというと、「単に対抗言説を流すだけでは、不十分ではないか」と思えてならないのである。もちろん、対抗言説の価値を全否定するつもりはない。それは別の視点や見方を提供することであり、「人間は言葉で世界の見え方が規定されてしまう生き物」であるとするならば、最もシンプルで効果的な脱(?)洗脳手段といえるからである。しかし、対抗言説の流布と併せて、「どうすれば我々は信用するに足る証拠を提示できるのか?証拠が証拠足りえているかどうかをどのように吟味すればよいのか?」という問いに対する答えも、積極的に発信する必要を感じているのである。

追記1:情報を鵜呑みにすること自体が問題

普天間基地一帯には誰も住んでいなかった」という語りの蔓延に危機感を覚えた大学教授が、自らの講義で「普天間基地にかつて集落があった」と語ったとする。そして、講義に参加していた学生達は「そうだったのか!」と驚き、その語りを鵜呑みにしたとする。これでは全く意味がない。なぜなら学生達は、大学教授という権威の発言に従っただけといえるからである。新聞やテレビやネットで入手できる情報を、ただただ鵜呑みにすること自体が、問題なのだ。何が事実なのかを見極める方法。主張の根拠が根拠足りているかを吟味する方法。単に対抗言説を放つだけではなく、大学関係者やメディア関係者は、上記についての知を、もっと積極的に語って欲しい。

追記2:語りを吟味する技能を磨くためのディベート教育の可能性

たとえば、ディベートを講義に取り入れることで、上記の知(何が事実なのかを見極める方法。主張の根拠が根拠足りているかを吟味する方法)を、大学教授は学生達に伝えることができるかもしれない。

普天間基地一帯には誰も住んでいなかった」と主張する側と、「普天間基地にかつて集落があった」と主張する側に分かれて、データとワラントをお互いに提示し、この2つの主張の正当性を徹底的に検証するのである。当然、この作業は、データとワラントの正当性の検証も含む。そして、「資料の全く存在しない過去の一時期についてはどのように考えるべきか」「証言の裏を取るにはどうすればよいのか」「目の前にものがあるとはどういうことか。それが存在することを証明することはいかにして可能か」といった難問に、ディベートの過程で、両者は直面するであろう。

この経験を通して、何らかの主張を行うことがいかに実は困難なことであるのかを学生達は実感し、「普天間基地一帯には誰も住んでいなかった」という主張や、「普天間基地にかつて集落があった」という主張のどちらにも、容易に賛同できないことが理解できるのではないか。そうなれば、ネット上の書き込みや、大学教授の語りに易々と飲み込まれない、自分の頭で考える懐疑的な学生が育つのではないだろうか。

追記3:「語りで構築できるもの」と「語りで構築できないもの」との区別の重要性

結局は、「犯人を特定するために行われる科学捜査」や「何らかの物理的な存在を証明するための実験」の手法を、大学関係者やメディア関係者は、事実の特定方法として外部に発信する必要があるといえそうだ。

その際、「うそと本当を区別するなんてナンセンス。全ては語りで構築された虚構。そして虚構に生きるのが人間。うそも本当もないのです。事実を特定するという際の、その事実自体がもともとどうとでも語れるような、幻想のようなものであるならば、事実を特定すること自体に意味はないですよね?あらゆる語りを私は疑い、そのどれにも与しません。全ては虚構。レトリックの産物です。」という内容の、極端な構築主義とは距離を取り、「物理的な世界は確実に存在する」という前提で語るようにしなければならないだろう。

極端な構築主義者は、私のような天邪鬼に、足を踏まれて余りの痛さにその場から逃げ出し、その後私に「あんたは全てを虚構や幻想とみなすのだろう?じゃあどうして俺に足を踏まれて逃げたのだ?足の痛みがあったからだろう?俺の足が実際に存在するからこそあんたはそれに踏まれて痛さを感じたのだろう?俺の足や、それに踏まれて感じた痛みを可能にする神経組織などの、物理的な存在を認めるからこそ、あんたは私から逃げ出したのだろう?」と批判されたとしても、「あなたが見た、逃げる私なるものは、あなたの妄想か、語りによって構築されたところのものに過ぎません。」としれっと答えて、物理的世界の存在を前提とした行動をしっかり取りながらも、物理的世界の存在を認めようとしないだろう。

こうなってしまっては、おしまいである。全ては構築されたものと言いながら、確実に存在する痛みや、それを引き起こしたものの実在性を無視し、それらから目を背け続けることは、自らの身体(脳を含む)に不誠実な、愚かしい行為である。先の例で、極端な構築主義者が足を踏まれて逃げ出すことは、痛みを無視してはいないことを示しているが、言葉のうえでは痛みや足や神経組織が物理的に存在していることを無視しているので、問題だ。このような態度は、何が事実なのかを特定しようとする営みや、何かを変えようという動きを、抑制するものとして機能するだろう。

全ては語りで構築されたものと語る極端な構築主義者が、痛み等のリアルな感覚に性懲りもなく見舞われ、これを沈めるための手段として、痛みを生じさせるものを直接取り除いたり、病院に行ったり、薬を付けたりといった行動を取らなければならないのであれば、極端な構築主義者は物理的な世界をしっかり認めて行動しているに等しい。本当に、全てが語りで構築されているならば、極端な構築主義者は痛みを感じた時に「私の唾液はあらゆる痛みを消す薬である」とでも語って、あらゆる痛みを消す薬としての唾を構築し、それを早速飲み込み、一瞬で痛みを消してみせればいいものを。

「語りで構築できるもの」と「語りで構築できないもの」を区別することが肝要である。たとえば、ングランビや妖術やぬりかべ等は「語りによって構築されたもの」である。一方、月や太陽*1は「語りで構築できないもの」である。「普天間基地一帯には誰も住んでいなかった」という語りと「普天間基地にかつて集落があった」という語りのどちらが事実を語ったものであるのか。上記区別が可能であることを念頭に置いておけば、「全ては語りによって構築されたものなので、事実を特定しようとすることはそもそも不可能なのではないか」という心配をすることなく、堂々と前向きに、この問いに取り組むことができるに違いない。

*1:名前を呼ぶこと自体が、その名前で呼ばれるところのものを構築することであるのかもしれないが、黙って空を見れば私の言わんとしていることは十分に理解できるだろう