つけいる隙

TVで、宮本という名の野球選手が「シーズン中はタコは食べない」と述べていた。理由は「凡打がタコと呼ばれているから」なのだという*1。私はこれを見て、やはり人間の思考というものは面白いと思った。

何が面白いのかというと、タコという音で蛸が想起され、これを食べないことで、タコ(凡打)が回避されようとしている点が面白い。蛸は野球とは何の関係もないのに、たまたま凡打という意味のタコと、音が一緒だからという理由で、野球選手によってしっかりと忌避されてしまっている。

確かに、タコという音を聞いて蛸を想起してしまうことは不思議な話ではない。音が全く同じだからだ。しかし、タコという音を聞いて、蛸を想起するだけに留まらず、このタコと蛸の同等関係の想起から、蛸を食べまいとする積極的な行動が引き出されてしまうことが面白い。蛸は野球の勝ち負けと本来何の関係ないのに、忌むべきタコ(凡打)という言葉と同じ音であったばかりに、拒絶の対象となる。

タコ(凡打)と音が似ている蛸を忌避する宮本選手の思考は、典型的な類感呪術的思考といえる。本来忌避すべき対象とは異なる対象が、本来忌避すべき対象と何らかの点で似ているという単純な理由で、あたかも本来忌避すべき対象そのものであるかのように扱われている。これは類感呪術的な思考である。AとBを、何らかの点で似ているという理由から同じものとみなし、AだけでなくBも忌避したり、攻撃したり、あるいは受け入れたりすることを可能にする思考。

呪術の話題はやはり面白い。そこから、科学の対象とする物理的な世界とは明らかに異なる世界(言葉の世界)を、しっかりと生きてしまっている人間が垣間見える。 タコ(凡打)と蛸は音が似ているので、蛸を避けることでタコ(凡打)を避けようという考えは、なるほど非常に納得のいく話ではないか。野球選手であるからにはタコ(凡打)は避けなければならない。同様に、タコ(凡打)と同じ音である蛸も避けなければならない。なぜなら蛸はタコ(凡打)だから。つまり同じものだから。

宮本選手をTVで偶然見かけて、人は言葉に縛られる生き物だということを、私は再確認した。詩あるいは文学、比喩、言葉が思考につけいる隙は、今も、そしてこれからも大いにある。そうであるならば、この隙に日頃からそれなりに気を配ることは、理にかなった行為といえるだろう。

*1:ちなみに、野村監督は「勝った時に履いてた下着は洗わない」らしい。理由は「ツキが落ちるから」なのだという。