真喜志民子と真喜志勉

某プロジェクトの首謀者であるインディペンデントキュレーターが、そこに顔を出すというので、重森さんは会社を早めに出て駆け付けた。

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ギャラリーに足を踏み入れた重森さんは若干戸惑った。この日はちょうど、真喜志民子さんと真喜志勉さんによる作品展示会の初日であり、そのお祝いとしてギャラリーでは、オードブルを囲んでのささやかな宴が始まっていたからである。

関係者しかギャラリーの中には入れないのかもしれない。そう考えた重森さんは、ギャラリーに足を踏み入れることを一瞬躊躇した。しかし、お腹がすいていたので、割と自然にテーブルへふらふらと近づいていった。

重森さんは真喜志民子さんと真喜志勉さんについて何も知らない。インディペンデントキュレーターから、彼らの名前を初めて聞かされたのが2日前の5/11であった。内輪話で盛り上がる関係者の方々を眺めながら、ギャラリーに展示された作品を所在なく眺め続けることもできたが、なんかもったいない気がしたので、重森さんはお二人に挨拶をすることにした。

二人の真喜志さんは、インディペンデントキュレーターの名前を出すと、快く重森さんを仲間扱いしてくれた。どうぞどうぞと誘われるがままに、食事を開始する重森さん。ウニを食べるのは久しぶりであった。

まずはじめに真喜志民子さんと会話する。作品は絹で織った布。触れてもよいというので、重森さんはむやみに触りまくった。柔らかそうであるが、意外にざらざらしていた。

次に真喜志勉さんと会話する。F-22という戦闘機をモチーフにした作品。ぱっと見て、地図みたいだと思った。黒い長方形の木片に、白と緑と赤の色が塗られている。下部には黒い麻布が張られている。上部には文字が書かれている。「vanishing point」「PAC3」「KADENA」「north east of OKINAWA」と書かれている。そして、直線がいくつか描きこまれている。

「あのう。この作品群は、F-22コクピットのディスプレイに映る沖縄を表現しているのですか?」
おずおずと重森さんが質問すると、真喜志勉さんは次のように説明してくれた。

「ううん。これはF-22が飛び立つ時の爆音と、その姿が見えなくなった後の静寂を抽象的に表現したもの。vanishing pointというのは消失点。消えてなくなる点。昔、国会議事堂にバイクで突入した沖縄青年がいたのを知ってる? それとあれ、イージーライダー。アメリカの若者のやり場の無い衝動のはけ口としてのバイク。やがて衝突し消えてしまう。そういうイメージ。」

「なるほど。。」と重森さんは相槌を打った。

泡盛もあるから、飲んでって」と言い残し、真喜志勉さんは他のお客さんのもとへ去っていった。

また一人になった重森さんは、しばらく料理をつつく。こういう、誰も知り合いのいない場所で、ひとり料理を黙々と食べるという経験には、どのような面白さが内在している可能性があるだろうかと考えながら、周囲の会話を盗み聞きする重森さん。来ている人々は、ほとんどが芸術家の人たちのようだ。

そうこうしているうちに、建築系編集者が現れた。

このところ、建築関係者にばかり会っている気がする。

建築系編集者の方に紹介された人も、建築家であった。日本とアメリカの両方の国で建築士をしているその方を、オディベさんと呼ぶことにする。

オディベさんに自己紹介がてら、プラセボの話をするとめちゃくちゃ面白がってくれた。また、統計の話もすると、ナイチンゲールの話を聞かせてくれた。

ナイチンゲールは、統計学者としても有名である。クリミア戦争時、負傷兵が収容される施設の環境を変えることにより、死者の数を減らすことにナイチンゲールは成功した。オディベさんはその話を「建築に従事する者として非常に考えさせられる話」としたうえで、次のようなことを教えてくれた。

「欧米の病院では、窓は床からはじまるのです。なぜかというと、従来の窓では、寝たきりの人が見ることの出来る景色が、空に限定されてしまう。そのため、俗世と切り離されてしまった感覚を与えてしまうからです。空しか見えない環境では、「もうじき自分も空に行くのだろうか。。」ということを考えてしまいます。そのことを考慮して欧米のほとんどの病院では、道路や建物や人が見えるように、つまり外部とのつながりが感じられるように、床の位置から窓がはじまっているのです。」

なるほどそうなんですか。知らなかった。と重森さんがやや興奮しながら話を聞いていると、なぜかいきなり左下腹部に鈍い痛みが走った。

振り向くと、真喜志勉さんが、重森さんの下腹部を殴っていた。

?? かなり動揺する重森さん。

真喜志勉さんは酔っ払っているのだろうか? 重森さんはいろいろ考えつつも、「こういうコミュニケーションの形がこの人は好きなのかも」とすぐさま判断し、遠慮なく真喜志勉さんの下腹部を殴り返した。

真喜志勉さんは「あぐっ」と唸った。

しかし、負けじと腹を突き出してきた。

そして、「お前、沖縄の人間なんだよな〜?しんやの友達なんだよな〜?」と言いつつ、肩に手を回してきた。

なんだろう。この雰囲気は、誰かに似ている。そうだ。昔、路上でお世話になったことのあるおっさんたちに酷似している。酒と粗野な言動に彩られているがどこか暖かい(ある意味うっとうしい)コミュニケーションの仕方。そうだ。真喜志勉さんは、沖縄の酔っ払いなのだ! 真喜志勉さんは、場になじんでいない重森さんをどこかで心配しつつ、殴ってきたのだと予想される。

こうして重森さんは、真喜志勉さんという人間を勝手に了解したつもりになった。

そうこうしているうちに、やっとインディペンデントキュレーターが姿を現した。某プロジェクトについていろいろと話したいことがあったのだが、比較的手短に挨拶を交わす。というのも、インディペンデントキュレーターの姿を見るなり、真喜志勉さんが大声で呼びかけ、長い会話がはじまってしまったからである。そしてそれはどうしてか英語で行われた。

なんでこの人たちは英語で会話するのだろう?と訝しく思いつつも、まあどちらも国際的に有名な芸術関係者だから英語で話すのが普通なのだろうと重森さんは考え直した。かくいう重森さんも英語を話せないわけではない。ただし英語で話すと、話す内容が非常に幼稚になってしまい、頭が悪い人に見えてしまいがちであるが。

既に21時を過ぎていたため、オディベさんにさよならの挨拶をし、インディペンデントキュレーターに、某プロジェクトの成功を願っている旨を伝えて、重森さんはすっかり暗くなった麻布十番に姿を消した。