人類学的忘年会

人類学者だらけの忘年会に参加してきた。興味深い「語り」を収集することができた。以下、それらの「語り」を、重森という特殊フィルターを通したうえで整理。

1、エクスターナル/インターナル

法学者のハートによると、制度と人間について語る際に、我々は二つの状態を想定することができるという。

■エクスターナル

ひとつはエクスターナル。制度を外部から眺めることができる状態。制度にがっちり縛られず、制度をマニピュレイトできる状態。

例、「横断歩道の信号機が赤だと人は横断歩道を渡らない。たとえ車が来なくても信号機が赤ならば人々は横断歩道を渡らない。前から歩いてくる大勢の人々を気にすることなく、横断歩道を快適に渡りたい私は、車が来ないならば、信号機が赤の時に横断歩道を渡ってしまえ。」と判断して、信号機が赤の時に横断歩道を渡る人。

■インターナル

もうひとつはインターナル。制度にがっちり縛れており、制度をマニピュレイトすることができない状態。

例、「信号機が赤だ。なにがあろうと横断歩道を渡ってはいけない。車が来なくても信号機が赤ならば横断歩道を渡ってはいけない。」と判断し、信号機が赤の時は必ず立ち止まる人。

■「エクスターナル/インターナル」という枠組みの疑わしさ

制度を利用するためには、制度について熟知していなければならない。信号機が赤のときに横断歩道を渡る人物は、「信号機が赤ならば止まらなければならない」という道路交通法に熟知しているといえる。制度の存在をしっかりと踏まえたうえで行動するこの人物、すなわち、制度をマニピュレイトしているこの人物こそが、制度に最も支配されている人物といえまいか? もしかしたら、「エクスターナル/インターナル」という枠組みは、分析枠組みとして欠陥があるかもしれない。なぜなら、エクスターナルな状態も、インターナルと言い得るからである。

↑うーん。でも、制度から「ある程度」距離を取ることができているという点(=制度を相対化できているという点)において、「信号機が赤のときに横断歩道を渡る人」は、「信号機が赤のときに必ず立ち止まる」人とは、明らかに異なるように思う…。


2、フリードソンによるラディカルエンピリシズム

人類学者がフィールドに行く。現地のインフォーマントとともに参加した儀礼について、人類学者自身が感じたことをノートに書き付ける。例えば、儀礼に参加したその日の夜に見た夢の話を書き付ける。そしてフィールドから帰ってきたあとで、その内容を人類学者はそのまま論文に書き、「○○族の文化」に関する記述とする。「当該社会に自分が身を置いたからこそ見ることの出来た夢の内容は、当該社会について知るための貴重な資料となる。私が当該社会で見た夢は、当該社会にいたからこそ見ることの出来た夢であり、その夢は、当該社会の文化を構成する一要素となっている。」この主張がラディカルエンピリシズム。「俺の主観は当該社会を知るための有力なデータだ文句あっか」という立場。

しかし、他の人類学者からは非難轟々。次のような非難をいただくことになる。「我々は当該社会について知りたいのだ。お前の夢のことなど知りたくもない。お前は人類学者で、現地の人ではない。現地の人の夢ならともかく、お前の夢を論文に延々と書くな。お前のことなど知りたくない。我々が知りたいのは現地の人と彼らが住む社会と彼らの文化だ。」 

多くの同僚から批判されたラディカルエンピリシズムな人類学者は、「自分が当該社会で見た夢は、当該社会について知るためのデータといえる」ということを裏付ける証拠を、提示する必要がある。これはいかにして可能だろうか?どのような証拠を提示することができれば、人類学者が当該社会で見た夢を当該社会について知るためのデータとして、提示できるのであろうか?


3、『嗤う日本の「ナショナリズム」』

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

縛られ方を類型化している。制度やイデオロギーへの呪縛のされ方の歴史化・類型化。世界との距離の取り方(=アイロニー)を分類。

アイロニーとは、本来、世界と自己とのあいだに距離を置き続けるポジショニングの方法論であるはずだ。そうした距離化の方法論が、世界と自己とを同一化する「感動」「ロマン主義」と共存するというのは、常識的に考えれば矛盾以外の何ものでもない。しかし、注意しなくてはならないのは、アイロニーもまた、特定の時代・社会のコードによって規定される社会的行為であるということである。「何がアイロニーか」「アイロニカルであるための条件とは何か」「アイロニーにはどういう価値があるのか」……「世界と自己とのあいだに距離を置き続けるというポジショニング」の内実は、歴史的・社会的に変容せざるをえない。

「現代の若者たちにはアイロニーがない」という論者もいるが、たぶんそうではない。八○年代的な意味でのアイロニーを標準とみる立場からすると、たしかに「ポスト八○年代」はアイロニーなきベタな時代、と映るかもしれない。だが、2ちゃんねるの場合がそうであるように、現在にあっても、というか現在にあってこそ、アイロニーの精神はしたたかにいきづいているようにみえる。「アイロニーがなくなった」のではなく、おそらく、「アイロニーの社会的・言説的位置価が変容し、八○年代的な意味での「ベタ」と接続可能なものとなった」のである。現代がベタか/アイロニカルか、と論じることにはあまり意味はない。むしろ、アイロニーとベタとの共存を可能にする言説構造の歴史的由来こそが問題とされるべきであろう。

本書では、「世界と自己の関係の取り直し」という行為、一般に「反省reflection」と呼ばれる行為の社会性・歴史性を追尾することによって、右の問題に取り組んでいくこととしたい。(北田 2005:22-23)

「ネタとベタ」という用語は、誰が使い始めたのであろうか? 最近、多くの社会学者が使用しているように思う。

「ネタとベタ」といえば、私はすぐにサクティのことを思い出す。

学部生の頃、私はバリ島でサクティという怪しげなものを手から出していた。

http://www.kitakyudai.net/~shige/DSC00360.jpg

「出していた」というと語弊がある。「出す真似をしていた」「あたかも出ているかのように振舞っていた」といったほうが「自分のリアル」と衝突しない。

周囲は、私がサクティを出していることに何の疑問も持たなかった。それどころか、「お前のサクティは強い」「熱い!効くなお前のサクティは。」と、私のサクティを評価した。彼らにとってサクティの存在は自明であり、私がそれを上手に使いこなせているかどうかが彼らの関心時であった*1

私は見所のあるサクティ使い(サクティアン)として期待されていた。夜中に治療を頼まれて、友人の彼女の風邪を手かざしで治療したり、お世話になっていた家の奥さんに「ちょっと肩が痛いからサクティで治して」とお願いされて、人目のつかないところで手かざししたりしていた。

「うーん。サクティなんてあるわけないのに*2。この人たちは本気だ。全然サクティの存在を疑わない。だからきっと、私の手かざしは効くだろう。」

と思いつつ、私は手かざしを行っていた。この場合、私の状態は、エクスターナルといえる。そして私の治療を喜んで受けていた人々は、インターナルといえる。私はいつも自他の言動を疑いながら、サクティを出す「真似」をしていた。「サクティなど存在しない」と本当は思っていたくせに、「私のサクティは強いよ。どう? 病気治った?」と、しらじらしく問いかけたりしていた。つまり私は、サクティを出す演技をしていた。

サクティを出しているかのように振る舞う私は、サクティの存在を自明視している現地の人にとっては、「サクティを出している人」でしかない。「サクティを出す演技をしている人」としては捉えられない*3。しかし、私にとっては、「サクティを出す」という振る舞いは、「自分のリアル」と衝突する行為である。「サクティなどない」と思いつつ、手かざしをする私は、自分自身を「サクティを出す演技をしている人」として捉えていた*4

いつものように私は罪悪感をもっただろうか? 罪悪感はないと言えば嘘になるが、それに苛まれることはあまりなかった。私の手かざし治療を受けていた人々は、私の言動をベタに受けとめていた。そして、「シゲのおかげで良くなった。ありがとう!」とお礼を言ってくれた。それが単純に嬉しかった。

バリ島にいる頃、サクティによる手かざし治療に従事する私は「むこうも喜んでいるからいいか」と単純に考えていた。私は、サクティによる治療効果が増すように、自分の言動をより洗練させようとさえ思った。

上記のような割り切りを、私は日本において行うことができない。

日本において私ができないことには、なにか理由があるに違いない。おそらく、「サクティを出す演技をしている人」として、周囲の人々が私を解釈する可能性に、私はおびえているのであろう。

なんだ。結局私は、他人の目を気にするヘタレということか?

*1:もしかしたら、異国から来た色の白い若造に、現地の人は次のような疑問を持つことがあったかもしれない。「こいつはブラフマンのサクティを今私に使用しているのだろうか? ブラフマンのサクティと偽って、実はヴィシヌのサクティを私に使用しているのではないか? 私は騙されているのではないか?」 つまり、あくまでもサクティの存在は自明視されたままで、現地の人は私を、上記のように疑っていた可能性が想定できる。

*2:もちろん、このような私の態度は問題を含んでいる。なぜなら「サクティなんてあるわけない」と最初から決め付けているからである。このような態度は、天動説と地動説の二つの話を耳にしたとき、何も考えずに後者の説を正しいと判断するような、盲目的な反応である。地動説を正しいとする大部分の「日本人」の、いったいどれ程の人が、しっかりとその正しさを証明することができるであろうか? 「物理の教科書に書いてあったから」としか答えられないのではないだろうか? したがって、ちゃんと調べてないくせに、「サクティなんてあるわけない」などと決め付けてはならないと本当は思う。しかしだからといって、「サクティという存在が実際にあるのかどうか」をどのように調べればいいのか、その方法が分からない。証拠を欠いた主張は聞く価値なしとして捨て置くか、もしくは、証拠を備えている主張に対しても、その「証拠と主張」のつながりに納得感を得るために必要不可欠な、事前に吹き込まれているべき「他の様々な情報」が私の頭に欠けているならば、私は無視を決め込むしかないように思う。私は現地の人々による「サクティはある」という主張を素直に受け入れることはできず、受け入れたフリをすることしかできない。「ふーん。そうなんですね。サクティはあるんですね。」と表面的に受け入れて、内心では「あるわけねーだろ」と思うしかない。サクティにリアリティを感じるためには、私はバリ島に生まれ、そこで育ち、「サクティに関する語り」を浴びるように吸収しなくてはならないように思う。だから、既に私は手遅れだ。サクティの存在が「自分のリアル」になる日はおそらく来ないであろう。使いこなす真似や演技は出来たとしても、私は「サクティのある現実」にはけして入り込めない。

*3:「サクティを出すフリをしているのではないか?」と、現地の人は私の行為を疑うことができないだろう。なぜなら彼らにとっては、「呪文を唱えたあとで上空に振り上げた手を息を止めながら自らにかざしてくる。」という行為こそが、「サクティを照射してくる」ことそのものだからである。その行為を「サクティを出すフリ」として疑うことができないということは、今まさに役所へ婚姻届を提出しようとしているカップルに対して、「結婚するフリをしているのでは?」と疑うことができないことと同じである。

*4:私は次の2点において「人を騙している」という実感を持っていた。①「自然科学的な意味において存在する」とは言い難いサクティなるものを、自然科学的に存在するモノとして皆に提示している点。②サクティによる治療に従事する私自身が、「サクティなど本当はない」と実は考えている点。