2008年2月の3連休

土曜日

昼過ぎまで寝る。たかはしに行くが、珍しくお休み。しょうがないので北千住を歩き回り、別のよさげな店を発見。欧風カレーを食べる。

月曜に取れてしまった右下の奥歯の銀歯を持って歯医者へ。案の定、銀歯の裏に虫歯。このようなケースは、これで3回目。この際、他の銀歯もすべてひっくり返して調べてもらおうか。

帰宅後、白菜と鶏肉のコンソメ鍋を作る。ポン酢とともに美味しくいただく。最近、こればかり食べている。

夕食後、夜中までYoutube探索。気持ち悪いけどついつい何回も見てしまうような危険なPVを発見。パパイヤ鈴木の動きがよい。なんともいえない存在感を醸し出している。キモイ。だがしかし、格好いい。あまりによいので、画面を見ながら真似して踊ってみる。しかし、真似できず。意外と高等技術だ。

日曜日

国立へ移動

11時頃に起床。洗濯物を干す。掃除機をかける。風呂を洗う。ついでに服の整理を行う。何がどこにあるのかを把握することができたからであろうか。気分が晴れ晴れとする。

人類学バトルに参加するために、国立へ移動。電車で移動中に大杉先生の『アイロニーの翻訳』に目を通す。「秩序への埋没と秩序からの距離化の二重性」に関する論文。内容てんこもりで、熱い何かがぐつぐつと煮えたぎっている。大杉先生がファブレ=サーダに言及しているいることが新鮮だった。内容の理解はまだまだ不十分だが、現時点の私は「そうか。私はこのままの私でも、「好き」*1と相手に言ってもいいのかもしれない。」という怪しげな感想を抱いている。

ここでは、<アイロニカル>であるということを、もっとも簡便かつ価値自由に、秩序への埋没と距離化が二重に、あるいは平行して実現されている状態としてとらえ、埋没の極にふれる場合を<アイロニー>の欠如、距離化の極にふれる場合を<アイロニー>の過剰と呼ぶことにしたい。(大杉 2008:320)*2

不可知のソレは、認識の埒外のものとして世界の外部に位置しつつも、それに漸近していこうとする世界内の運動にエネルギーを備給しつづけて、私達を<アイロニスト>にとどめつづける。啓蒙主義の翻訳としてタンバランの秘密結社は、ドラマの結末が不明なままでもそのドラマに身を投ずることがともかく可能であること、そしてそれが思うほど常軌を逸したことでもないことを、私たちに教えるのである。(大杉 2008:332)

アイロニーで肝要なのは、それがある種の猜疑の解釈学、つまり『言われたこと』の表層を一皮むいて、その背後に本当に意味されたことを探しあてるような解釈学を招き入れるのではなく、むしろ意味というものがそう単純に、はっきりと異なったレベルに分けられるものではないという事実の表現、ないし認識をもたらすということである。(大杉によるランベック(2003:9)からの引用 2008:337)

人類学バトル(第四回)

アイロニーの翻訳』を読み終えた頃、国立に着く。

最初の発表者の方が、「人類学とくらべて、民俗学の方々には、海外留学の経験者が少ない。これでは他者に出会う機会が得られないのではないか。」と発言。これを受けて、つらつらと次のようなことを考える。

研究仲間との会話においてだけでなく、家族や、会社の同僚との会話においても、他者の「世界の見え方」「認識のあり方」を自分のそれに近似させるという作業を私は常日頃から行っている。いわば、毎日プチ洗脳合戦である。この、交渉とも呼びうるような、他者の「世界の見え方」「認識のあり方」を自分のそれに類似したものとして変容させようとする試みは、いつも私を疲れさせる。なぜなら、あまりうまくいったためしがないからだ。

そういう意味では、他者はどこにでもいる。わざわざ海外に行かなくても他者に出会うことは十分に達成できる。国内とか海外とかいった区分にはそれほど意味はないのではないか。

懇親会

民俗学者monodoiさんに初めてお会いする。研究のスタンスおよびお互いのポジショニングについて話し合う。別れ際、玉稿を拝受する。

ちなみに玉稿は、「おうこう」ではなく、「ぎょっこう」と発音する。

バトル終了後

共同研究室にたまる。

ブラザーMから、デスノートのエルというキャラクターに似ていると言われる。不健康そうで、猫背で、携帯を変な手つきで持つらしい。気になる。

月曜日

いつものように共同研究室で朝を迎える。とてもいい天気。青空が見える。

国立から新宿へ移動。本当に天気がいいので新宿を、ひとりぶらぶら散歩してみることにする。

昔、ナンパ師の特訓を受けた場所を歩く。「たしか、こうやってこうして振り向いて、○○というセリフを言うんだったっけ」と、あのとき伝授してもらった技を確認する。全然使ってないけど。

なんとなく、新宿御苑なる場所に足を運ぶ。NTTドコモタワーと新宿御苑の広い芝生はおそらく共犯して、ここを訪れる人々を魅了するのであろう。小1時間ほど、ふらふらと御苑を探索。


(注:これはネット上で拾ったものです。今日の芝生の色は白に近い黄色でした。)


レストランでカレーを食べた後、山手線で上野に移動。上野から日比谷線に乗り換え。途中、日の光が電車内を照らした。まぶしくてまぶしくてとても目を開けていられないほど強烈な光。こんな美しい風景はあまり見たことがない。お昼13時頃の日比谷線に乗ることが滅多にないからであろう。

やがて、北千住に着いた。

追記

デスノートのエルというキャラクターが気になったので、調べてみた。なんかあぶない感じだ。目の下がクマだ。携帯の持ち方がちょっと変だ。確かに、物憂げで上がり目なところが、私に似ているのかもしれない。

*1:あるいは「愛している」

*2:埋没の極にふれる場合を<アイロニー>の欠如と呼ぶのは理解できる。しかし、距離化の極にふれる場合を<アイロニー>の過剰と呼ぶことには違和感がある。なぜなら、<アイロニカル>であるということは、秩序への埋没と距離化が二重に、あるいは平行して実現されている状態のことを指し、埋没の極にふれることと、距離化の極にふれることは、どちらも<アイロニカル>という状態からの逸脱と考えられるからである。埋没の極にふれるにせよ、距離化の極にふれるにせよ、<アイロニカル>という状態から外れてしまうような事態は、<アイロニー>の欠如と表現したほうが適切ではないだろうか。