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新たなるコモンウェルスを求めて

芸大の近所の東大でネグリにまつわるイベントがあることを知り、芸大に行く前に東大へ寄った。

イベントの会場は安田講堂。「ここで昔、S水先生は戦ったのだろうか」と考えながら、正門から安田講堂の入口まで歩く。

開場30分前に到着したにもかかわらず、安田講堂の前には既に行列ができていた。ネグリ関係の行列だろうと見当をつけ私もそこに並ぶ。

途中、「早大文学部ビラ撒き不当逮捕」に反対する学生からビラをもらう。彼らは、安田講堂の前でしきりに拡声器で喋っていた。しかし、何を喋っているのかよく聞き取れない。

「何時に入口は開くのかな」と思いながら待っていると、前方から、黒ずくめの男が、嘗め回すようにテレビカメラを行列に向けつつ、歩いてくるのが見えた。テレビカメラが非常に大きいうえに、そのカメラを担いでいた男の顔がまるで戦場の兵士のような迫力ある形相だったので、どこの組織の人間だろう、と私はいぶかしんだ。

じとっとテレビカメラを向けてくるので、なんとなくイラっときた私は、カメラを睨んでみた。しかし、相変わらずじとっとテレビカメラを向けてくるので、相手の思うつぼだと悟り、テレビカメラの男に私は背を向けた。なんとなく不愉快な存在だ。「勝手に撮るな」と思う。なんでそんなに堂々と撮るのだ。

去年のちょうど今頃。上野公園の桜の下で、テレビ朝火の人間に、無言のままかなり近距離からテレビカメラを向けられ、「暑いですか?」といきなりマイクを向けられたことがあった。

「なんでこの人たちはいきなり他人にこんなことするのだろう?」とそのときは非常に不機嫌に思った。「土足で踏み入る」という表現が似合うような彼らの他者への接し方に私はいらだちを覚えた。おそらく彼らは仕事で「予定調和的な絵」を撮らないといけないのだろう。そうしなければ彼らは飯が食えないのだ。必死なあまり、「いきなりテレビカメラとマイクを向けられたら他人は驚くのではないか」という想像ができなくなっているのではないか。

「俺たちは何が何でも撮る!」という決意だけがひしひしと伝わってくるのはいただけない。まるで、徹底的に自分本位で幼稚なナンパを見ているようだ。他人はお前の仕事のために存在しているのではない。他人はモノではない。なぜ不用意にそんなふうにカメラを他人に向けることができるのだ? お前のために私はここにいるのではない。そんな言葉が頭をよぎる。

やがて行列は前に進み始めた。安田講堂の中に入る。ネグリの書籍が売られている。左の通路から講堂へ。できるだけ前方の席に座る。

すると、また先ほどの黒ずくめの男がテレビカメラを背負って現れた。助手らしき長身の男を従えている。そこに眼鏡をかけたインテリっぽい革ジャンの男が、やや神経質そうに黒ずくめに声をかけた。

「これつけとけ」

インテリ革ジャンは黒ずくめに腕章を手渡した。NH系という文字が刻まれている。

黒ずくめは面倒そうな顔でそれを身に付けた。そして舞台前方の通路に仁王立ちし、あたりをゆっくり見回している。相変わらず顔の表情が険しい。獲物を探す狩人のようだ。

やっぱりやな感じである。何かを表象することを生業とする者として、私は彼らに近親憎悪しているのだろうか。とにかく不愉快な気分である。

むっとした顔で「なぜ私はあの男にイライラしているのだろうか」と考えていると、いつのまにかイベントが始まった。

吉見氏が開会の辞を述べる。ネグリが来日できず残念だ。しかしネグリがフランスの自宅の古ぼけた電話機に発した声を、我々は安田講堂にて受け取ることができる。まさに国境や場の制限を越えたコミュニケーションをとることができる。これこそマルチチュードの実践といえましょう。というようなことを話す。「マルチチュードって何なんだろう」と思いつつ、私は話に聞き入る。

吉見氏の挨拶が終わり、次にネグリの講演原稿の代読映像がスクリーンに流された。

眠い。「構成権力」とか「潜在なんとか」といった難解な用語が次々に登場するため、話についていけなかった私は、気が付くと自分が寝てしまっていたことを把握するに至った。話が抽象的すぎるのである。具体的な事例が提示されなければ、抽象的な話を理解することができない私の脳は、スリープを余儀なくされたようである。

しかし、次に登場した姜尚中氏の話は、明快で分かりやすかった。

姜尚中氏を直接見るのは初めてである。背が高い。そして声が太い。姜尚中氏の話については、下記の部分が特に印象に残った。

キューポラのある街』で描かれたような労働者同士の連帯。現代はこれを期待できない殺伐とした時代だと言えまいか。NH系のワーキングプアの特集で、池袋でダンボールの家に住んでいる男性が登場していたが、彼は「なぜ自分は生まれてきたのか」と述懐していた。今、労働者はばらばらに孤立しているように思える。ネグリは、「具体性がない」「運動論がない」という批判を受けやすいが、ネグリの言葉はこの男性のような人々にきっと響くはず。

姜尚中氏がネグリに希望を抱いていることが良く分かった。

次に、上野千鶴子氏にマイクが渡った。上野氏を直接見るのも初めてである。噂には聞いていたが、ちっちゃい。そして声がかわいい。しかしその喋りはよく切れる刃物を連想させた。

特に上野氏がネグリに対して投げかけた以下の問いは、クリティカルかつ非常に興味深いものであった。

マルチチュードの実践は法を超えるというとき、その非合法の実践の中に「暴力」が含まれるというなら、それはいかなるもので、それを肯定するのはなぜか?

この日、ネグリに向けられた問いは全部で4つあったが、私にとって一番インパクトがあったのは、上野氏による上記の問いであった。

途中、ハプニングらしき出来事が勃発した。姜尚中氏や上野氏や他2名の教授によるディスカッションが行われていた最中のことである。

「なにがマルチチュードだ!」
「そうだそうだ!」

突然、会場からヤジが飛んだ。見ると、さきほど安田講堂の前でビラを配っていた学生がいる。

舞台から姜尚中氏が学生に次のように述べた。

「会の進行を止めないでください。言いたいことがあるなら後で言いにきてください。」

あくまで紳士的だが、やや高圧的に学生へ警告を発する。しかし学生たちはヤジをやめない。ついに姜尚中氏は舞台を降り、ものすごい目付きで学生に近づいた。そして、学生たちの拡声器を取り上げ、それを地面にポイと捨てた。

姜尚中氏のあまりの剣幕に危険を感じたのか、同僚とおぼしき人物が、姜尚中氏と学生の間に入る。

学生はかなりびびっている。なおも迫ってくる姜尚中氏に対して両手を突き出し、「分かりました。分かりました。」と案外素直に姜尚中氏の要求を承諾した。

終わったようなので、舞台に向き直ると、案の定、T美SとNH系のテレビカメラが一斉に学生の方に向いていた。

学生からのヤジが止まり、ディスカッションが再開された。

そしてついにネグリとの電話対談が試みられた。

舞台の上で、市田という名の男性が、ネグリに電話をかける。「あろ、とに?」とかなんとかフランス語で話し始めた。どうやら無事回線がつながったようである。会場に拍手が起こる。つられて私も拍手してみる。

しかしここからが退屈だった。上野氏からの質問にネグリはフランス語で答えてくれるのだが、ネグリはずーーーっと話しっぱなしなのである。話が止まらないのである。なにかのコントなのかと思うぐらいである。市田氏はネグリの機関銃のようなフランス語にずーーーっと頷き続け、その横では、通訳の中央大学の先生が、ネグリのフランス語を日本語の文章に翻訳するために、机に向かってカリカリとペンを走らせている。この光景が約30分続いた。

そしてついに時間切れとなったので、ネグリとの電話対談は打ち切られた。

「ネグリのフランス語はなまっていて聞き取りにくいのと、話自体が難しいので、理解できない箇所がいくつかありました」と正直に告白したあと、通訳の先生が翻訳結果を披露してくれた。

一生懸命耳を傾けたが、あまり理解できなかった。

最後に、ネグリとの電話対談を受けて再びディスカッションがもたれた。私は、上野氏の発言に意識を集中させた。

上野氏はネグリ氏の発言を冷徹に分析し、研究者らしく次のように述べた。

私は質問をもっと精緻に行うべきだったと反省している。ネグリは、国家が行使する暴力についてしか語っていない。そしてその内容は想定の範囲内。新しいことは何もない。マルチチュードが行使する暴力について彼は何も語っていない。

暴力を全面的に拒否する筋金入りのフェミニストである上野氏にとって、上記は切実な問いだったようである。また、上野氏は次のようにも語った。

ただ、今日分かったことは、マルチチュードというのは、国家成立以前から存在しているものであり、そのため当然の帰結として、国家が制定する法の影響下におかれることは絶対にないということ。このことはネグリとの電話対談ではっきり理解できた。しかし、だからこそ、マルチチュードが行使する暴力について、その正当性の根拠を答えて欲しかった。

その後、いくつか話題が出たが、そこでも私の頭に残ったのは、上野氏からの発言であった。

上野氏曰く、なぜマルチチュードはカタカナなのか。どうしてネグリのマルチチュードという言葉を日本に紹介する際に、訳者の方々は適切な日本語をあてなかったのか。現在、フェミニズムは、不用意にカタカナを用いてしまったばかりに、攻撃を受けている*1マルチチュードという言葉も同じような運命をたどってしまうのではないか。

上記の上野氏による危惧に対し、訳者の一人である市田氏が次のように返答した。

もともと、マルチチュードの適切な日本語訳を我々は決めようとはしていた。例えば、中国ではマルチチュードは「多衆」と翻訳されている。そんな風に適切な日本語を、我々は当初マルチチュードにあてようとしていた。しかし、調べているうちに、実はマルチチュードという言葉は、ヨーロッパにおいても浮いている言葉で、この言葉が生まれた場所においてさえも、しっくりきていない新しい言葉であることが分かった。しかし人々はそれでもマルチチュードという言葉を普及させようとしていた。「使い通そう」という意思が感じられた。そのため我々は、いやいやながらもマルチチュードという言葉のまま、これを日本に紹介した。

マルチチュードという言葉は、どこか馴染み難いざらざらした感触をもったままでよいと私は思います。それは、デモクラシーという言葉が、やがて民主主義という意味の言葉として日本で受け入れられたように、徐々に我々に血肉化していく。そう思います。」

まとめとして、姜尚中氏が、だいたい上記のようなことを述べた。氏は、ネグリが作ったマルチチュードという言葉が、現代の貧困や悲惨な労働環境に苦しむ人々を勇気付け、結び付け、彼らの力となることを願っているようであった。

私は、まだ、マルチチュードというものがよく分からないままである。足を踏まれたら「痛い!足をどかせ!!」と声をあげ、足を踏みつけている者の顔を睨み、自分の快・不快について恐れることなく明確に発言するようなあり方と、その共有化のことを指しているのではないかと、勝手に考えたりしている。「法やそれに準じた規範以前に、自分の生命を尊ぶあり方」とでもいえるだろうか。

ある語り口の採用は、ある経験を身につけることに等しい。」と、かつて私の指導教官は述べていた。マルチチュードという言葉を用いて語るうちに、やがて世界が、その言葉でしか表現できない何かを備えたものとして、たちあらわれてくるのかもしれない。

*1:おそらく、ジェンダーという用語のことと思われる。