エリクソンのテクニック1

思うところがあり、『ミルトン・エリクソン子供と家族を語る(金剛出版)』を読んでいる。問題を抱えた多くのクライアントを独自の手法により救済へ導いてきた催眠療法家エリクソン。本書は、彼を心理療法家と人類学者がよってたかって取り囲み、「お願い!そのコツ教えて!」と肉薄して生まれた対談集である。

半分まで読み終えた現時点において、なんとなく、エリクソンの技の大雑把な雰囲気を把握することはできたと思う。治療に際してエリクソンが用いる手法は事例によって異なる。しかし、どの事例にも共通して以下のようなエリクソンの姿勢が見て取れる。

  1. 目の前の人間が、どのような世界に生きているのかを瞬時に把握し、あくまでもその世界観に沿うようにして問題を解決しようとする姿勢。

「こういう時はこうする」というマニュアルがエリクソンによって披露されることはない。本書で確認できるのは、目の前の人間の思考様式をいち早く見破り、その仕様に大幅な変更を施すのではなく、その仕様をそのまま極端に拡張するような形で利用し、いつのまにか問題を解決していくエリクソンの姿である。

もちろん、催眠という良く分からない手段に訴える場面もあるにはあるが、基本的にエリクソンは、クライアントの世界観に自らの言動を臨機応変に適応させて、クライアントの世界観を傷付けることなく、むしろ過剰にその仕様を拡張させ、物事が別の方向に加速して進んでいくようにして、問題を解決していく。

私も常日頃から目の前の人間に対して、「この人は、どのような種類の思考を行う人間なのか。」と分析的な眼差しを向け、その人の論理をそっくりそのまま模倣することにより、その人が絶対に回避できない形の批判を行ってみることがあるため、エリクソンの上記のような態度には非常に親近感がある。

しかし、「なーんだ。神秘がかった口調で語られるエリクソンの技とやらは、そんなに難しそうではなさそうだ。」と安心していた私を困惑させる手法も本書には数多く掲載されている。例えば、以下のような手法がそれである。

ヘイリー:(中略)先生のスタイルを学習するための最も実際的な方法は何でしょうか? テープはたくさん持ってますし、議論もたくさんしてきましたけど。
エリクソン:私が思うに、一番良い方法は、小さな子どもたちを楽しませることだね。たとえば子どもたちに、「バンビちゃんは耳をパタパタさせた? それでお空を飛んでいった?」。「違うよね、バンビじゃないよね、それはダンボだよね」なんていうお話をするとかね。
ヘイリー:なんか、よくわからないんですけど。
エリクソン:ダンボ、知ってる?
ヘイリー:はい。
エリクソン:そいつは耳をパタパタさせて飛んでったでしょ、違う? で、そいつのことをバンビと呼ぶわけ、ダンボっていう音と似てるじゃない、ちょっとだけね(笑)。子どもは一所懸命訂正しようとするよね。でもそこで、「耳をパタパタさせた」っていう部分に問いを投げかけてあげるの。子どもは、そいつも耳をパタパタさせたって言いたいんだけど、でもそれはバンビじゃないから、そういうふうに言えないんだよ(笑)。わかる?
ヘイリー:そうすると子どもたちはどうするんですか?
エリクソン:こちらの方から訂正しあげるの。「ああそうだ、ダンボだった」って。子どもをピョンて放って、ピョンて放って、ピョンて放って、別の方向に向けちゃう。子どもは、世界中で一番面白いお話を聞いてると思ってるよ(笑)。だって子どもを刺激して、ずっと興奮させてるんだから。
ヘイリー:名前を変えてみるっていうのは私もやったことがありますけど、どこか別のところを強調して、彼らが名前を変えられないようにするっていうのは、やったことないですね。
エリクソン:「僕、このお肉食べないからね」と言う子どもがいたら、君たちどうするの?
ウィークランド:うーん、私はまだそういう場面に出くわしたことないですね。うちの子は、今のところ何でも食う子だから。
エリクソン:この先思いやられるね(笑)。子どもに、お前は鳥だって叱るんだよ。そしたら子どもは、必死になって自分は鳥じゃないってことを証明しようとするでしょ。鳥じゃないってことの証明の一つは、肉を食うことだよ(笑)。
ベイトソン:もし子どもが、「コケコッコー!」って言ったら?
エリクソン:もし彼がその線に乗ってきたら、君の体は羽だらけだねって指摘してあげるの。僕の体は羽だらけなんかじゃないぞってなるよね。
ベイトソン:その時点で彼は戻って、自分は鳥ではないということを証明しなきゃいけなくなる。たとえ第1ラウンドでは調子合わせててもね。
エリクソン:その通り。第1ラウンド、第2ラウンド、第3ラウンドと、彼はずっと証明し続けるでしょう。あれやこれやと子どもがその証明を試みてきたら、じゃあこちらは不可能なことを持ち出すんです。彼は、服が羽だってことには同意するでしょう。髪の毛が羽だ、目が頭のこっち側についてるってことにも同意するよね。で、これはものを食べるものだから本当はくちばしで、これは羽の生えてる翼なんだよって。そうやって引っ張っていくと、完全にこちらの言うことに同意するようになっていって、彼はどんどんどんどんその気になっていく。完全に彼がこちらの言うことに同意するようになったら、今どこかに飛んでっちゃわないでね、もうちょっとここにいてねって言ってあげるの(笑)。ほら、彼は引き返さなくちゃいけなくなった。でもすごく簡単でしょ。こちらは彼に付いて行き、彼はこちらに付いて来ない。彼は今この場で、引き返さなきゃいけない。(ジェイ・ヘイリー 2001:84-85)

後半の「肉を食べない子ども」の話はまだ理解できる。「肉を食べないもの=鳥」という図式を子どもにそれとなく注入することにより、「肉を食べるという行為」に子どもを自発的に従事させるという作戦である*1

しかし、前半のバンビの話が良く分からない。心理療法家のヘイリーさんも「なんか、よくわからないんですけど。」と言っているように、ここで起きている出来事をいまいち私は把握することができない。

  1. エリクソンが、ダンボを故意にバンビと呼ぶ。
  2. 子どもは「エリクソンがバンビと呼ぶものは、バンビではなく、ダンボだ」と訂正しようとする。
  3. エリクソンは子どもに「耳をパタパタさせた?」と質問する。
  4. バンビもダンボも耳をパタパタさせるものなので、ついつい子どもは「バンビも耳をパタパタさせた」と言いたくなる。しかし、エリクソンがバンビと呼ぶものは本当はダンボなので、子どもは「バンビも耳をパタパタさせた」とは言えない(つまり子どもは今本当に話題になっているものはダンボであると律儀にわきまえているからこそ、子どもは「バンビも耳をパタパタさせた」とは言えないということ?)。
  5. エリクソンは「ああそうだ。ダンボだった」と自分から訂正する。

エリクソンが、子どもを翻弄しているのは分かる。しかし、これがどのようにして心理療法の役に立つのかが私には分からない。

このように、本書には時折理解不能な箇所が存在しているが、めげずに残りもコツコツ読んでいこうと思う。


ミルトン・エリクソン 子どもと家族を語る

ミルトン・エリクソン 子どもと家族を語る

*1:子どもが鳥に憧れを持つような人間だったら、作戦は失敗すると思う。この作戦は、「自分を鳥なんて呼ばせない!」という考え方をする子どもにのみ有効と考えられる。