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フィールドワークの心得

人類学

現在の日本では、「放射線を恐れる必要はない」という信念と、「放射線は恐れてしかるべきものだ」という信念が、激しくせめぎあっている。専門家や研究者や政府の見解が信用できない今、放射線の危険性とそれへの対応の仕方については、一人ひとりが自ら情報を集めて判断するしかない状況が続いている。この状況で生き延びるために必要なものは一体何であろうか。福島第一原発での収束作業とそこで働く作業員を、いわゆるフィールドワークによって描いた「いちえふ~福島第一原子力発電所案内記~」という漫画を読み、このようなことをつくづく考えた。

この漫画の主人公は放射線を恐れる必要はない」という信念の持ち主と思われる。このことは「安全面についての不安は無かったと言えば嘘になるが、今回の事故について放射線について自分なりに調べてみれば一部のマスコミや「市民団体」が騒ぐ程のものではないとわかった」という主人公の独白から読み取れる。主人公にとって原発事故に由来する放射能汚染は騒ぐほどのものではないのである。放射線を恐れる必要はない」という信念に基づけば、世界はこの漫画で描かれているように実際に見えるのであろう*1

最後の場面に牛が登場する。これは「放射線を恐れる必要はない」という信念の正しさを裏付けるデータとして登場していると考えられる。事故後に生まれたと思しき子牛を目の前にした主人公による「勿論奇形など見たことはない」や「他の動植物も同様だ 彼らはこの禁断の地でむしろ 自由に逞しく生きている」などのコメントから、警戒区域で子牛に遭遇することによって、主人公が持つ「放射線を恐れる必要はない」という信念はさらに強化されたことが伺える。

私は、この漫画の主人公を批判したいのではない。この漫画を放射線を恐れる必要はない」という信念を広めることを目的にして書かれたプロパガンダとして非難したいのではない。そうではなく、この漫画に確認できる「真理化のプロセス」*2の存在に注意を促し、これを自覚することの重要性を訴えたいのである。

主人公は、「放射線を恐れる必要はない」という信念を、「放射線を恐れる必要はない」という信念を持つからこそ得られたデータに基づいて、更に強化しているといえる。さきほど挙げた牛がその具体例である。

しかし、これとは逆のパターンも十分に想定できる。もしも主人公が、「放射線は恐れてしかるべきものだ」という信念を持っていれば、時間をかけて他の動植物を詳細に観察し、奇形を発見することで、「放射線は恐れてしかるべきものだ」という信念を強化させるであろう。放射性物質に汚染されていない土地であっても、奇形の動植物は、丹念に探せばいつか見つかる。そのようにして、全く同様の「真理化のプロセス」によって、「放射線は恐れてしかるべきものだ」という信念が強化されることが予想できるのである。

観察者の信念は、その観察者の信念を強化する形で、観察者による探索行動に影響を及ぼす。分かりやすくいえば、人は、見たいものしか見ない。この「真理化のプロセス」に自覚的になろうと努めること。このことを私は、フィールドワークに臨む観察者に推奨したいのである。

もちろん、完全に客観的で中立な視点など存在しない。「真理化のプロセス」の存在を知っていたとしても、「真理化のプロセス」は起こるだろう。しかし、だからこそ、せめて己がどのような種類の信念に呪縛されているのかを自覚しようと努めることが必要なのである。このような態度の観察者なら、たとえこの人物が「放射線を恐れる必要はない」という信念の持ち主であっても、道で見かけた子牛に奇形が存在してないように一瞬見えた際に、「車から眺めただけで、奇形の有無がすぐに見極められるのだろうか」や「外見に問題はなくとも、もしかしたら内臓に奇形があるかもしれない」や「奇形の子牛は奇形ゆえに早い時期に死に絶えるのではないか。だから奇形の子牛の姿は確認できないのではないか。目の前の子牛はたまたま奇形にならずにすんだラッキーな子牛なのではないか」や「そもそもこの子牛の累積被爆線量はどれほどのものなのだろうか」と疑い、己の判断に待ったをかけ、放射線を恐れる必要はない」という信念の強化をキャンセルすることができるはずである。

また、同じように、たとえ「放射線は恐れてしかるべきものだ」という信念の持ち主であっても、「真理化のプロセス」に自覚的であるならば、例えば、いちえふで働く作業員が心筋梗塞でなくなった際に、これを放射性物質に起因するものと即断しなくてすむであろう。「この作業員の既往歴はどのようなものなのだろうか」や「そもそもこの作業員の累積被爆線量はどれほどのものだろうか」や「各原発施設の労働者の心筋梗塞発生率は他の業種の労働者と比べて高いのだろうか」という疑問を想起し、これらの答えを踏まえたうえで、判断を下そうとするであろう。放射線は恐れてしかるべきものだ」という信念を単純に強めなくてすむであろう*3

どのような信念に呪縛されていてもいいのである。己を縛る信念は「放射線を恐れる必要はない」というものであっても良いし、「放射線は恐れてしかるべきものだ」というものであっても良い。重要なのは、己を呪縛する信念がどのようなものなのかを自覚しつつ、探索活動を行うことである。それでも相変わらず、自らを呪縛する信念に合致するようなデータばかりが次々に集まっていくだろう。それだけ信念の力は強い。しかし、ここで踏ん張って、目の前のデータを、己を呪縛する信念による選り好みを経ることによって、他の側面が見えなくなる形で、己を呪縛する信念を裏付ける有用なデータとして見かけ上現前しているものなのではないかと疑ってみること。または、見つけたデータを、己を呪縛する信念とコンフリクトを起こすようなデータとしてあえて眺めてみること。または、己を呪縛する信念とコンフリクトを起こすデータを積極的に求め、己を呪縛する信念とは別の信念に身を開こうとしてみること。これらの行動を意識して行うことが、フィールドワークを行う観察者に必要なフィールドワークの心得であると私は考える。

*1:私は「放射線は恐れてしかるべきものだ」という信念の持ち主である。そのため、いちえふに作業員として入ることは絶対にない。しかしもしも、私がいちえふで作業員として働く機会があれば、この漫画の主人公とは別の世界を見ることになると思う。

*2:「真理化のプロセス」とは、世界についての何らかの観念(「地球は丸い」「放射線を恐れる必要はない」等)によって導かれた行為が、まさにその観念に合致した結果にいたることによって、その観念が「真」とみなされるようになることである。「予言の自己成就」に似た現象といえる。詳細については、下記論文を参照のこと。『イデオロギー論についての覚書』 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/15647/1/kunitachi0000200210.pdf

*3:「真理化のプロセス」に意識的な、放射線を恐れる必要はない」という信念の持ち主であれば、作業員が心筋梗塞で亡くなった際に、これを「勿論被爆とは関連がない だったら俺たちは皆死んでいる」と安易に判断するようなこともしないであろう。「この作業員の既往歴はどのようなものなのだろうか」や「そもそもこの作業員の累積被爆線量はどれほどのものだろうか」や「各原発施設の労働者の心筋梗塞発生率は他の業種の労働者と比べて高いのだろうか」という疑問を想起し、これらの答えを踏まえたうえで、判断を下そうとするであろう。