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自分のポジショナリティを他人に勝手に語られること、決め付けられてしまうことの悲しさ

下記のFBの記事におけるコメント欄でのやり取りに触発され、年末は、ポジショナリティについてずっと考えている。

決め付けと閉じた思考

ポジショナリティについて考えると、自分のポジショナリティを他人に勝手に語られること、決め付けられてしまうことの悲しさに、思考が行き着いてしまう。

これは私自身が、沖縄生まれの沖縄育ちであるのに、父親がナイチャーで肌の色が白いということで、一部の沖縄人にナイチャー扱いされてきた経験に拠るのであろう。

まあ、仕方ないよなーとは思う。肌の色が白くて、聞いたことのない苗字を持つ人間は、沖縄でナイチャー扱いされて、憎しみをぶつけられても、仕方ないと思う。沖縄人には私は、憎きナイチャーにしか見えないのだから。

そんな私も中高生の頃、ビーチなどの観光地で、色白の半ズボン姿のアロハシャツの男性なぞを見掛けようものなら、やや侮蔑的なニュアンスを込めて、「ナイチャーあらに?」と友人たちと話していたのだから、自業自得である。

もしかしたら、あの、色白の半ズボン姿のアロハシャツの男性は、沖縄人だったかもしれないのに。

今は埋め立てられて、東浜として生まれ変わった、与那原の海。ここは昔は、サーフィンの名所であった。12月なのにサーフィンしている人々を見掛けた、当時小学生だった頃の私は、「なんでこんな寒いのに海に入るか?ナイチャーだからだろ。ナイチャーはフラーだ」と友人たちと訝しんだ。思えば偏見にまみれた小学生であった。今思えば、あの与那原の海で12月にサーフィンしていた人達も、もしかしたら沖縄人であったかもしれない。

他者をナイチャーとして分類すること自体には罪はないだろう*1。これは単なる分類名といえる。しかし、そこから一歩勝手に踏み込んで、「あいつはナイチャーだから、酷いことや悪いことや馬鹿なことをしている、あるいは、今からそのようなことをしようとしているに違いない」と想像し、この想像に基づいて、排他的かつ挑発的な態度をナイチャーに示すのは問題であろう。

想像に基づいて、沖縄人からナイチャーに示された、排他的かつ挑発的な態度が、防衛的かつ攻撃的な言動を、ナイチャーから引き出してしまうことが、多々あるのではないだろうか。沖縄人による想像にすぎない「邪悪なナイチャー像」を、それに依拠した沖縄人が、ナイチャーを責めるような言動を積極的に行うことによって、ナイチャーに体現させてしまうという、逆説的な現象。

沖縄各地で行われている運動の場に身を置けば、このような現象を実際に観察することができるかもしれない。沖縄の運動現場における「暴力的で搾取的なナイチャー」の分裂生成的誕生の過程が観察できるかもしれない。沖縄人が、「こいつはナイチャーだから、酷い奴だ」と決め付けて、ナイチャーに接することで、そのナイチャーを実際に酷い奴にしてしまうという現象。

しかし、このようなことを沖縄人に話したら、「お前は結局はナイチャーなのだな。ナイチャーはすぐに自己正当化する。やっぱりナイチャーは酷い奴だ」という形でその沖縄人は、自らの「邪悪なナイチャーイメージ」を単に強化してしまうかもしれない。閉じた思考体系に、いくら外部から情報を入力しても、閉じたままなのかもしれない。

ナイチャーを敵視する、思考の硬直した沖縄人にもしも遭遇して、ナイチャーと決め付けられたら、私はその沖縄人を無視するか、ひたすら謝るしかない。「実は自分は沖縄生まれの沖縄育ちで父は北九州の生まれで母の旧姓は奥島で祖母の旧姓は喜舎場で…」などと説明しようものなら、「ナイチャーはすぐに自己正当化する」とみなされて、余計状況が険悪になる可能性があるからだ。硬直した思考は、他人の意見を全く吟味できないからこそ、硬直しているといえる。

このような予想ができてしまうので、実は私は、沖縄における運動の現場にあまり行きたくない。ナイチャーを敵視する沖縄人に出会って、ナイチャー扱いされて、憎しみをぶつけられたら、悲しくなってしまうからである。ナイチャーを最初から敵視する、頭の固い沖縄人に、ナイチャー扱いされることを私は怖れている。

私が最も危惧すること

とはいえ、この「ナイチャー扱いされて憎まれること」には、だいぶ耐性がついた。訳も分からず、格闘技の試合に出場させられているうちに、格闘技に適応できてしまったかのような、打撃と孤独に対するタフさが身に付いたように思う。ナイチャー扱いされて、憎悪を向けられたら、それはそれで悲しいけれど、まあ仕方ないなーそういう風にしか見えないだろうからなーと思いながら、さくっと無視できるスルー力が今の私には備わっているので、一応問題はない。

ただ、他の、私のような境界的な存在が、同じような目に遭うのは不憫に思う。たいてい、米兵との間に生まれたダブルは、「アメリカー」とか「くろんぼー」とか呼ばれて沖縄ではいじめられる。よくあることである。コザでロックバンドを組んでいた沖縄人が、そのような経験を、怒りを交えて語る新聞記事を、以前どこかで読んだことがある(誰だったか忘れた)。ナイチャー扱いされて身に覚えのない憎しみをぶつけられたという私の経験も、これと似たようなものだろう。

コザでいじめられた「アメリカー」や「くろんぼー」。そして、私のような「ナイチャー」といった、沖縄における境界的な存在が、沖縄人によって憎しみのはけ口にされている場面にもしも遭遇したら、私は迷わず彼らを擁護したいと思う。また、境界的な存在に限らず、生粋のナイチャー(って何だ)が、頭の固い沖縄人に憎悪の念を向けられている場面に遭遇しても、私はそのナイチャーを擁護したいと思う。その人が何をしたのかではなく、その人がナイチャーであること自体が、槍玉に挙げられている可能性があるからだ。

私が最も危惧するのは、辺野古新基地の反対運動のような、多くの沖縄人とナイチャーが集う現場において、運動方針に関する意見の対立が生じた際に、ナイチャーを憎む沖縄人が、「論理的な誤りや事実の誤認」をナイチャーに指摘されたことを曲解し、「沖縄人の運動をナイチャーが奪おうとしている」と憤り、運動が空中分解してしまうことだ。

「沖縄人vsナイチャー」という対立図式に依拠して思考する沖縄人が、運動参加者のナイチャーから「論理的な誤りや事実の誤認の指摘」を受けた時に、その沖縄人が、そのナイチャーの素朴な指摘行為を、「少数者である沖縄人の運動を乗っ取る行為」や「ナイチャーが当事者気取りしている」とみなすこと。沖縄における運動の場で、このような現象が生じてはいないだろうか、という心配が私にはある。

目の前の人間を、沖縄の利用を企む狡猾で自己中心的なナイチャーとしてではなく、それぞれの課題に向き合って生きる一人の個人として見ることができるなら、このような反応は起きないのであるが、少なからずの沖縄人には、ナイチャーを、ナイチャーというだけで敵視する傾向があるため、このような反応が生じる可能性が十分ある。

私自身が、かつて沖縄人としてナイチャーを盲目的に蔑視していたぐらいだから、運動の場で、「論理的な誤りや事実の誤認」をナイチャーに指摘された沖縄人が、反射的にむかっときて、「このナイチャーめが!」とばかりに、ナイチャーなるものに最初から抱いていた憎悪を爆発させて、そのナイチャーを「少数者である沖縄人の運動を乗っ取る行為」や「ナイチャーが当事者気取りしている」という台詞を用いて糾弾しても、全く不思議ではない。

差異に徹底的に拘ること

ところで、目の前の人間をナイチャーと認識するやいなや、「日本人なら日本に基地を持って帰れ」という台詞を、そのナイチャーに投げかける沖縄人がいるが、私はこれには反対だ。文句を言う相手を間違えている可能性があるからである。沖縄人が文句を言うべきは、米軍専用施設の沖縄への固定を実際に推進する日本政府であろう。あるいは、そのような政府を支持する有権者のナイチャーであろう。どのような人なのかをろくに確認しないで、ナイチャーだからという理由だけで、その人のポジショナリティを勝手に決め付けて、「日本人なら日本に基地を持って帰れ」と述べることは、理不尽な嫌がらせでしかない。「アメリカー」や「くろんぼー」。そして、「ナイチャー」と呼ばれて育った私のような境界的な存在が、沖縄で経験してきた理不尽な仕打ちとほとんど同じである。目の前の人間を、勝手に憎きナイチャーと決め付けて、攻撃している。私はこのようなことを行う沖縄人を見掛けたら放置しない。全力でこのような場面には介入していきたい。

たとえば、もしも、辺野古新基地反対運動に、前回の記事で言及した青森の「ともよ」さんが駆け付けてくれたにも関わらず、運動の現場で沖縄人が、「日本人なら日本に基地を持って帰れ」と、問答無用に彼女を責めたてたならば、私は声を大にして次のように言いたい。

そのような言い方をするのはやめて下さい。日本政府によって押し付けられた核施設のことを憂いて、本来は自分の故郷でその問題に取り組むのに精一杯であるはずの「ともよ」さんが、わざわざ辺野古新基地反対運動に協力しにきてくれたのに、なんなんですかその対応は。日本という国家の防衛戦略の一環で、沖縄に米軍専用施設が集中させられたように、六ヶ所村にも、日本という国家の防衛戦略の一環で、核施設が日本政府によって建設されたと考えられるので、沖縄と青森は同じような境遇といえます*2。基地と核施設のどちらが脅威かなんて比較には意味がありません。なぜならどちらも非常に危険だからです。沖縄も青森のどちらも、理不尽で未知数な危険に晒されています。だから、沖縄も青森も両方とも、日本政府の犠牲者です。なんで犠牲者同士で対立しないといけないのですか。文句を言うべき相手が完全に間違っています。相手がナイチャーだからといって勝手に敵とみなすのはやめて、その目の前のナイチャーが、どのような境遇を生きて、どのように沖縄の現状と関与しているのかを正確に見極めてから、「日本人なら日本に基地を持って帰れ」という台詞を使って下さい。足を踏まれたなら、足を踏んでいる人に文句を言ってください。同じように足を踏まれて苦しんでいる人間に、足を踏むなと文句を言うのはやめてください*3。もしも、青森の「ともよ」さんに、日本政府と全く同じ罪があると断言するのなら、それを論理的に証明して下さい。青森の「ともよ」さんが、日本政府が沖縄に対して行った基地の集中政策にどのように関与しているのかを、証拠を挙げつつ、具体的に説明して下さい。それができないならば、「日本人なら日本に基地を持って帰れ」という台詞を、青森の「ともよ」さんには使わないで下さい。

上記のような私の台詞に対し、「「沖縄人vsナイチャー」の差異をあなたは無視するつもりか?」「「沖縄人vsナイチャー」の差異を曖昧にして、沖縄の現状に対するナイチャーの責任を有耶無耶にするつもりなのか?」という反論が成り立つかもしれない。

確かに、差異は重要である。沖縄を現在のような状態にしている張本人を特定し、その人間達の責任を問うためには、目の前の人間達から差異を検出しなければならない。しかし、私は上記のような批判は、一見して差異を重視しているように見えながら、実は差異をないがしろにしている、見当違いの批判だと考える。

なぜなら、差異に拘るのなら、「沖縄人vsナイチャー」の差異の確認に留まるだけでなく、沖縄人内部の差異や、ナイチャー内部の差異にも拘ってしかるべきだといえるからだ。沖縄人内部の差異を無視した場合、たとえば、自民党を支持する沖縄人と、そうではない沖縄人が、両者とも沖縄人のカテゴリーに含められることになり、自民党を支持する沖縄人に対する批判の声が挙がりにくくなる(自民党を支持する沖縄人の存在が意識されにくくなる)。また、ナイチャー内部の差異を無視した場合、たとえば、日本の内閣総理大臣と、青森の「ともよ」さんが、両者ともナイチャーのカテゴリーに含められることになり、基地を押し付けられた沖縄と非常に似た境遇である、核施設を押し付けられた青森に住む「ともよ」さんまで、批判対象になってしまい、日本という国家の犠牲者である沖縄人が、同じく日本という国家の犠牲者である「ともよ」さんを糾弾するという、悲しい事態が生じてしまう*4

これは、基地に反対する沖縄人が求めていることではないはずだ。沖縄人が差異に拘る理由は、沖縄を現在のような状態にしている張本人を特定し、その人間達に責任を負わせるためであろう。そうであるならば、「沖縄人vsナイチャー」という差異を確認することで、差異の検出作業を終わらせてはいけない。差異に拘るのならば、徹底して拘ること。差異への中途半端な拘りは、上記のような「敵の特定の失敗」を招いてしまうであろう。

そもそも、「沖縄人vsナイチャー」の差異に拘る一部の沖縄人は、どのようにして目の前の人間をナイチャーに分類しているのだろうか。おそらく、肌の色、容姿、苗字、出身地、行動などを指標にして、沖縄人かナイチャーかを区別しているのではないだろうか。もしも、これが事実であるなら、このような差異の捉え方は、あまりに粗雑と言うべきであろう。このような差異の捉え方では、こぼれ落ちてしまう差異がある。目の前の人間が、どのような境遇を生きて、どのように沖縄の現状と関連しているのか。この問いのもと、徹底して差異を捉えようとしない限り、青森の「ともよ」さんを、日本の内閣総理大臣と同じ罪を犯している敵として認識し糾弾するという愚行を、一部の沖縄人は繰り返してしまうであろう。与那原の海で、ナイチャーを馬鹿扱いしていた小学生の頃の私と、やっていることが本質的に変わらない。外見的な特徴や行動のみを指標にし、目の前の人間をナイチャーと決め付け、あまつさえ、その人間をナイチャーだからという理由で馬鹿扱いしていたかつての無知な私と、同じである。相手のポジショナリティを勝手に語り、決め付けて、相手を非難している。差異に拘っているが、その差異の捉え方が、あまりに稚拙で陳腐だ。

差異の捉え方を磨き、差異を徹底的に捉える。このような姿勢が、沖縄の現状を変革するための社会運動の場において、強く求められていると私は考える。

*1:その他者が本当にナイチャーであるならば、であるが。

*2:日本に存在する核施設には、核兵器を保持したいという日本政府の目論見が関与しているといえる。NHK番組「核を求めた日本」では、戦後日本が核兵器を持つつもりであったこと、原子力発電所核兵器の原料(プルトニウム)の調達先として位置付けられていたことが明らかにされている。ここから分かることは、原子力発電所から発生する核廃棄物を処理する施設(原発から出た核廃棄物から核兵器の原料であるプルトニウムが取り出せる施設)が建設された青森の六ヶ所村は、このような日本という国家の防衛戦略と無関係ではないということである。つまり、青森は沖縄と同じように、日本という国家の防衛戦略における犠牲となっている可能性が高いのである。また、青森は、アイヌ蝦夷などの少数民族が居住していた地域でもある。もしかしたら「ともよ」さんは先住民の末裔かもしれない。以上を踏まえると、目の前のナイチャーを、ナイチャーだからという理由で、即座に敵扱いすることには、無理があることが理解できるだろう。

*3:より詳しく言うならば、沖縄人が文句を言うべき相手は、次のような人間である。米国大統領とその側近(軍事企業含む)、彼らを当選させた有権者日本の内閣総理大臣、官僚、自民党の議員(沖縄出身者も含む)、彼らに投票した有権者達(沖縄出身者も含む)、その他沖縄県知事などの政治家、そして彼らの命令に忠実に動く執行機関の職員達(沖縄出身者も含む)。

*4:これは、アメリカ先住民を、基地の持ち主であるアメリカ人として批判することと似ている。アメリカ人のなかでも、大統領とその側近、そして彼らを支持するアメリカ人こそ批判されてしかるべきではないだろうか。青森の「ともよ」さんは、国家の犠牲者であるだけでなく、アイヌの末裔である可能性がある。ナイチャーや日本人という言葉は、上記のような、本来は敵ではない、同じような境遇の人々を含み込んでしまうカテゴリー概念であるため、非常に使い勝手が悪い。あまりにも大雑把で曖昧すぎる。しかも、鹿児島県奄美大島の住人といった、かつて沖縄で差別を受けていた人々まで含み込んでしまうので、問題含みのカテゴリー概念といえる。