Into The Wild

O先生という、何かが多すぎな人類学の恩師から「面白いよ」と以前勧められた映画を観る機会があったので、感想を記しておきたい。

イントゥ・ザ・ワイルド [DVD]

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悲しい物語

この映画は実話に基づいているらしい。端的に言うならば「悲しい話」であった。ある青年の旅に関する物語なのであるが、彼は生きて家に帰ることができなかった。もしも家に無事帰ることができていたら交わしたであろう両親との抱擁の場面と、息子の死を知らされた両親の狼狽の場面が、とにかく悲しい。特に、最初は道路を冷静な顔をして歩いていた父親が、息子の死という事実に耐えられず、ついに顔をくしゃくしゃにして、最終的には地面に座り込んで茫然と虚空を見つめる場面は、涙無しに観れなかった。とにかく悲しい。

他者に対する冷たい態度

「悲しさ」が最も印象に残っているのであるが、それだけでなく、印象に残ったことが他にも2つある。1つは、他者に対する主人公の態度が冷たすぎること。冷たいというよりも、どこか遠くに飛びすぎていると言った方がいいだろうか。妙に悟りきっていて変なのである。

何もかも否定して、ここではないどこかへ行って、そこで一人雄々しく生きたいという主人公の青臭い野望には、理解できる部分があるにはある。しかし、自分のことを慕ってくれる他者に対して主人公は、素っ気無さすぎる。既存の価値観に容易に与せず、物事を相対化して捉える姿勢には好感が持てるが、他者が主人公に対して示す自然な親愛の情や思いに対しても、主人公は、既存の価値観の相対化を敷衍する形で、どこか「世の中を全て把握しきったような超越的な態度」とともに、過剰に冷静に対応しているように見えるのである。

主人公の矛盾

印象に残ったことの2つ目。それは、主人公の行動に矛盾が見られること。物質主義的な社会を忌み嫌う主人公は、大学を優秀な成績で卒業したあと、アラスカの荒野を一人目指す。そして、そこで衰弱死するのだが、その全ての過程において主人公は、モノに溢れた社会を否定しながらモノに頼る。

例えば、主人公はアラスカの荒野まで、ヒッチハイクして「車」に乗せてもらったり、「カヌー」で川を下ったり、「電車」に無賃乗車したりして辿り着き、そこで見つけた「廃バス」の中で生活する。腹が減れば「銃」を使って主人公は狩をする。食事の際には「スーパー」で購入した「米」も食べる。

言うまでもなく、「車」「カヌー」「電車」「廃バス」「銃」「スーパー」「米」は、主人公が否定する物質主義的な社会で産み出されたモノである。「病んだ社会とは縁を切り荒野で一人で生きる」と息巻いているわりには、主人公は社会にどっぷり漬かった生き方をしている。モノの恩恵を受けながら、モノを産み出す社会を全否定するという矛盾。社会の外に出た気になっている主人公は、実はしっかり社会の中で生活していること。主人公はこの矛盾に最後まで気付かない。挙句の果てに主人公は、野草に関する「本」を誤読して死ぬことになる。「本」もまた、物質主義的な社会の産物のひとつである。

物質主義的な社会を否定し、そこから外に出るのであれば、モノをカネで購入してそれを占有し利用することを一切辞めるべきではないのだろうか。主人公は歩いてアラスカに行くべきではないだろうか。銃やナイフをカネで買うのではなく、自分で作るべきではないだろうか。服やリュックも放棄して、インドあたりにいる修行者のように裸同然の姿で移動するべきではないのだろうか。モノの消費や所有とカネの蓄積に価値を置く社会を全面的に否定するのなら、消費を通して社会と係わることを控えるべきであろう。

この点に関して主人公は妙に寛容である。「物質主義的な社会は嫌いだけど、ある程度は、そのお世話になることもやぶさかではない(必要な分だけ消費活動を行うつもり)」ということなのだろうか。しかし、もしも主人公が上記のような心境にいるのであれば、主人公はアラスカで生活することにそれほど価値を見出せなくなるように思える。なぜなら、「必要なモノを必要な分だけ買う。お金も必要な分だけ稼ぐ」という慎ましい心境に主人公がいるのであれば、主人公は社会を全否定することはできないはずだからである。主人公がこのような心境にいるのであれば、「様々な問題を抱えているけれども、社会は必要だ」という見解に至るであろう。社会から銃や米を手に入れていることに自覚的であれば、銃や米のお世話になりながらアラスカで生活することは、社会の中で生きていることとそれほど変わらないこととして主人公に感じられるであろう。「自分は社会なしでは生きてはゆけない存在だ」という自覚がないからこそ、主人公はアラスカで生活することで、社会の外に出た気になれているのである。

アラスカで生活する主人公は相変わらず社会の中で生きていること。社会に依存しているのに、社会の外に出た気になっていること。その驕りの罰なのか。あるいは、社会の一員であることの体現なのか。主人公は社会との関わりのなかで死んでしまう。

具体的には、主人公は次のような経緯で死んでしまう。アラスカの荒野で一人生活を営む主人公。ある日、持参してきた「米」が残り少なくなったことに気付き、「銃」で狩をするが肉の保存に失敗。やがて食料がなくなる。「街」で「食料」を仕入れるために主人公は「廃バス」を出て「街」の方向を目指して歩く。しかし、以前は難なく渡ることのできた付近の川が雪解けにより増水していることに主人公は愕然とする。

これでは「街」に帰れない。仕方なく主人公は「廃バス」に引き返す。引き返したのはいいものの、そこには食料はない。飢えに耐え切れなくなった主人公は、野草に関する「本」の情報を頼りにして、「廃バス」の付近に生えていた毒のある植物を、食べられる植物と勘違いして口にする。そして亡くなる。毒のある植物の詳細が掲載されたページと、食べられる植物の詳細が掲載されたページが「本」の中で隣り合っていたこと。これが災いしたのであった。

「Maybe when I get back, I can write a book about my travels(アラスカから戻ったらその旅の経験を本に書くかも)」と主人公は述べる。「いいね」と答えるミスターハッピー(旅の途中の主人公を雇った穀物農場の主)。主人公は本の内容について「You know, about getting out of this sick society(この病んだ社会から出ることについて書く)」と続けるが、ミスターハッピーはその発言に噴出し、「Society!」と大声をあげる。主人公も「Society!」と言い返す。そして2人で「Society!Society!」と大合唱する。主人公の現代社会への嫌悪が分かりやすく描かれた場面。主人公にミスターハッピーは「お前は間違っている」と述べるが、その言葉は主人公の心には届いていない様子。「アラスカに行って生活することは社会の外に出たことにはならない。アラスカでは銃で狩をして食料を確保できるから社会の世話になる必要はないだと?阿呆が。もしも銃の弾が切れたらどうする?銃の弾を買いにお前は街に出て行くのだろう?カネを出して銃の弾を買うのだろう?全然社会の外に出ていないじゃないか?お前は社会の存在を前提にしてしか生きられない。所詮キャンプ好きの都会人にすぎない。社会の外に出た気になっているだけで、社会の中で生きる他の多くの人々となんら変わらない。アラスカでサバイバル生活も結構だが、その程度で社会の外に出たなんて思うな。」とミスターハッピーが主人公に懇々と言い聞かせてくれていたなら、主人公の運命は別のものになっていたかもしれない。

幸福が現実となる時

社会を全面的に否定しておきながら社会に依存した己の在り方に気付かない時点で、主人公が愚かであることは十分に分かるが、主人公の愚かさが最もよく現れているのが、死ぬ間際になって「幸福の何たるか」を理解する場面であろう。

心ある様々な他者に旅の途中で慕われ、共に生きることを誘われながらも、主人公は他者と共にあることを希望しない。「執着しない」といえば聞こえは良いが、人間関係に対する主人公の態度は、どこか俯瞰的で超越的で、「誰かと一緒にいなきゃお前らは幸せを感じられないのか?俺は一人でも十分に幸せだぜ!」とでも言いたげな、上から目線で不遜なものなのである。

例えば、ロンという初老男性の家にお世話になっていた主人公は、ある日ロンに「君がいなくなったら寂しい」と告げられる。事故で家族を失くして以来、皮職人として働きながら長年一人暮らしをしてきたロンは、主人公との束の間の暮らしに幸福を見出していた。そのロンの正直な気持ちに対し、主人公が返した言葉はどのようなものであったか。以下がそれである。

「僕も寂しくなる。でも人生の楽しみは人間関係だけじゃない。神はあらゆる所に新たな楽しみを用意してる。物の見方を変えなくては。」

ロンが敬虔なキリスト教徒であることを踏まえて、主人公は神という言葉を使ったのであろう。しかし、主人公のセリフはなんて不遜で傲慢なセリフであろうか。

他者と一緒にいることをどうしてそこまで相対化するのであろうか。上記のようなセリフを返されたロンは、「自分の気持ちに主人公が素直に応答してくれない」と感じはしなかっただろうか。「親愛の気持ちが、主人公の勘違い的で超越的な視点からのセリフにより、鼻で笑われてしまった」と、感じはしなかっただろうか。少なくとも私はそのように感じた。「この青二才めが!」という怒りを私は主人公に感じた。「一人で生きようとする強さ」というポジティブな覚悟ではなく、何でもかんでも相対化する妙なエリート主義のようなものが主人公に垣間見えるのである。

このような、悪い意味で超越的で、ある種のエリート主義に染まっているように見える主人公が、一人死ぬ間際に朦朧とした意識の中でノートに書き付けた言葉は、以下のようなものであった。

Happiness only real when shared.

幸福が現実となるのはそれを誰かと分かち合った時。

死にそうにならなければ、このような簡単なことが分からないのであろうか。

主人公の生い立ち

誰かと一緒にいることで得られる幸せは、空気のようにあまりにも当たり前のものでありすぎて、心身ともに健康な主人公には、対象化できないものであったのだろうか。なぜ死ぬ間際にならなければ、他者とともにあることの幸福に気付けないのであろうか。

主人公が残した幸福に関する文章における「誰かと分かち合った時」という言葉は、「誰でもいいからとにかく誰かと一緒にいること」ではないだろう。主人公は、大嫌いな政治家とは死んでも一緒にいたくないであろう。ここで想定されている「主人公と幸福をシェアする誰か」とは、「自分に対して親愛の情を持っている他者」を意味するはずである。実際、主人公は旅の途中で様々な人々から慕われた。死ぬ間際に主人公は彼らのことを思い出していたはずである。

視聴者に「お前一体何様だ!」という反感を抱かせかねない主人公は、死ぬ間際にやっと、上記のような「誰か」と共にあることの喜びに気付く。飢えと身体的苦痛。それらに起因した恐怖と不安。これまで健康そのものであった主人公はげっそりと痩せ、おそらく旅の中で初めて死を意識し、心許なさを感じたに違いない。

主人公の生い立ちは、決して恵まれたものとは言い難い。主人公は、不倫の結果生まれた私生児であった。技術者としての地位と名誉を持つ父親は、家庭では母に暴力を振るう暴君であった。内部は破綻していながらも、表向きは幸せな家族を、主人公は妹とともに演出することを強いられた。大学進学とそこでの優等生ぶりもその一環であった。主人公は父を憎み、家庭を憎み、更にはこのような家庭の存立基盤となっている社会全体を憎み、ついにはそれらを全否定して、アラスカに向かったのであった。

主人公の気持ちは分からないでもない。嘘ばかりの世の中。欺瞞に溢れ体裁を整えることにばかり終始した薄っぺらい世界。良い学校に進学し、良い仕事を得て、カネを稼いでモノを消費する良い家庭を築くことを皆が目指す社会。このような社会を物質主義的かつ表面的として全否定したくなる気持ちは私にもよく分かる。

しかし全否定することはないではないかと思う。この社会全体を全否定してアラスカに行き、しかもそこで一人で生きるなんてどう考えても無茶である*1。不可能なことだ。

事実、主人公はそのことを自ら証明してしまった。

主人公と私

この映画を観ていて、アラスカの廃バスの中で孤独死した主人公が、自分に重なった。

20歳前後の私は、この社会の全てが嫌であった。嫌というよりも、怖かった。ここではないどこか遠くへ行きたいというよりも早く消えてなくなりたいと考えることが多かった。怖いものが多すぎたので、何かを怖いと認識する自分自身の思考自体を疑うことに凝った。そしていつしか物事を疑うことに固執した。思考が徒に超越的だったと思う。そういう意味では、この物語の主人公と私はよく似ている。世の中が嫌いだから、ついつい超越的な視点から物事を捉えようとしてしまうのだろう。

主人公は、着地点を誤ったように思える。自分の生きている世界を否定し、別の世界を希求することは間違いではない。しかし、別の世界は、どうしてアラスカのような大自然でなければならないのだろうか。「カネとモノの氾濫する物質主義的な世界とは対極の世界だから」という答えがすぐに返ってくるかもしれない。しかし、ではどうしてそこで一人で生きなければならないのだろうか。

私は、大自然の中で、そこで獲った動物を食べて生きている人々がいることを知っている。アラスカにもそのような狩猟採集型の生活をしている人々がいることを私は知っている。もしも今生きている場所が嫌いならば、そのような人々の世界に逃げて、仲間にしてもらいたいと思う。一人で生きていく自信は私には全くない*2

幸い、私は主人公ほど行動力や勇気や人徳がなく、アラスカで一人で暮らす自信も能力も体力もないので、現在は、沖縄の実家で家族と一緒に淡々と生きている。私はかなりの臆病者である。『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公とはこの点で私は異なる。

*1:繰り返しになるが、主人公は社会を全否定しながらも、社会に頼りながらアラスカで生活していた。そのため、社会の外のアラスカで主人公は亡くなったのではなく、主人公はあくまで社会の中で亡くなったといえる。

*2:今でこそこのように思えるものの、20歳前後の私は『イントゥ・ザ・ワイルド』の快活な主人公と違って、人や社会が怖いから人に近付けず結果的に一人になることが多かった。仲間にして欲しいとなかなか口にできないというよりも、仲間にしてもらってもずっと緊張して浮いているような人であった。今でもその傾向は多少あるかもしれない。