PB2020_理科_2単位目



1.間違えることとは、自分の頭で考えることに他ならない。より正確に言うならば、間違えることとは、自分の頭で考えた予想が外れてしまうことといえる。多くの人々にとって、間違えることは、避けるべき恥ずかしいこととして捉えられている。しかし、間違えることは、正しいことを把握するために必須の段階であるため、間違えることはむしろ推奨されるべきである。以下より、間違えることが正しいことを把握するために必須の段階といえる理由を詳述する。

 例えば、「豆電球のガラスが割れても豆電球はつくか?」(p‐35)という問題を出題された場合、多くの人は回答に窮すると考えられる。なぜならこの問題は、身近で既知の事柄に関する問題であるものの、改めて考えてみると自信を以て答えることが困難な問題だからである。あらかじめどこかで答えを覚えた人ならば、この問題に答えることができるであろう。一方、答えを知らない人は、間違えることを恐れて、口をつぐみ続けることが予想される。これは、多くの学校や授業の場で見られる光景である。いわゆる「優等生」と呼ばれる児童生徒のみが発言し、それ以外の児童生徒は、沈黙しているか窓の外を眺めているかの状態である。

 学校や授業の場が上記のような状態になってしまう背景には、「間違うことはカッコ悪いこと」(p-31)とでも呼びうるような価値観がある。いくら教員が「間違った人を笑ってはいけませんよ」(p-31)と注意したとしても、上記のような価値観が、学校や授業を通して児童生徒に刷り込まれてしまうのが現状である。このような状態は誰にとっても不幸である。なぜなら、発言を活発に行い、一見すると教育の恩恵を余すことなく享受しているように見える「優等生」は、覚えたことを吐き出しているだけで全く創造性がなく、それ以外の児童生徒は、教育から疎外されているからである。教育が、変化の激しい知識基盤社会で生き残る能力を身に付けるために行われるものとするならば、このような状態の学校や授業では、教育の目的は達成できないであろう。なぜなら、未知の問題に対しては、「優等生」もそれ以外の児童生徒も、共に沈黙するしかなくなるからである。

 未知の問題に取り組み、これを自力で解決して生き残れるようになるためには、間違うことが必要である。自分の頭で考えるからこそ間違えるのであり、この時点で未知の問題に取り組む構えができている。後は、間違えた理由を明らかにし、正しい答えを追い詰めればいいだけである。以上が、間違えることが正しいことを把握するために必要な段階といえる理由である。

2.科学入門教育とは、「自分の主体性(自分の直感、思い)」(p-88)を押し殺さずに、これを「科学の主体性(法則性)」(p-88)とぶつけ合わせて、科学の言い分が心から十分に納得できた後に、対等な立場で科学と契約を結ぶ(科学の言説を受け入れる)という態度を身に付けさせる教育である。これは、自分の頭で考えることをせずに、科学を無条件に信用し、科学に服従する形で科学の言説を鵜呑みにする「優等生」を生み出さない教育ともいえる。

 「金属光沢が見えたら、自由電子がうようよあり、電気をよく通す」(p-88)という科学の法則を児童が学んだ後で、「金色の折り紙は電気をよく通すでしょうか」(p-90)という問題に取り組み、「表面をサンドペーパーか何かでこすると明るくつく」という実験結果が得られたならば、彼等はどのような反応をするだろうか。この場合、「金属光沢が見えたら、自由電子がうようよあり、電気をよく通す」(p-88)という科学の法則が通用しないことに驚き、「金紙は銀色のアルミはくの上に透明で黄色の塗料を塗ったものだ」(p-91)という解説を聞いた後で、「金属光沢が見えたら、自由電子がうようよあり、電気をよく通す」(p-88)という科学の法則を児童が改めて受け入れたならば、科学入門教育の目的は達成されているといえる。

 銀色のアルミはくの上に塗られた黄色の塗料が邪魔になり、金紙に電気が通らなかったので、この塗料を取り除けば、金紙に電気が通るようになること。このことに納得し、当初学んだ科学の法則を改めて心から信頼できる人を育てる教育。これが科学入門教育である。盲目的に科学の法則を暗記する「優等生」では得られない確かな実感と心からの納得がここにはある。自分の直感(主体性)と科学の論理(自由電子の概念)を対等にぶつけ合わせて、科学の論理の内容に十分納得できた時にそれを受け入れる(科学と契約を結ぶ)人は、科学という権威にへつらわず、これに対等に向き合える健全な態度の持ち主といえる。

 科学入門教育とは、上記のような健全な態度を育む教育である。これは、十分に納得できない科学の法則に対しては堂々とNOを突き付けられる自立した個人を育成する教育ともいえる。このような教育の下であれば、辻褄の合った思考を行い、科学を含む様々な分野において建設的で論理的な議論ができる人間が輩出されていくと考えられる。

参考・引用文献

小原茂巳著 『未来の先生たちへ』 仮説社 2015年

捕捉

この理科関係のレポートを書く作業も、とても楽しいものでした。

大袈裟に聞こえるかもしれませんが、教科書や、それに基づいて自分が書いたレポートを読むと、何だか元気が出てきます。

理科に限らず、学問全般に関する重要な真理が、学べたように思います。